こんにちは、ハチ@夢中です。
もう、自分が「夢中になれること」を探すのはやめましょう。
探しても見つかりません
もう十分探したはずです。
私はずっと見つかりませんでした。
でも今は見つかりました。
それは、「夢中になった」からです。
まず夢中になりましょう。
「...?」
出会ったとしても「気付けない」のです。
『認知』が「間違ってる」、もしくは「偏ってる」から。
凝り固まった自分の「世界観」・「価値観」で観ているから、
出会ったとしても「気付けない」のです。
それを一旦外さないと、「気付けない」のです。
「常識」とか「世間体」とか。
「好き」も「嫌い」も。
「正しい」とか「正しくない」も。
それらを外すには「夢中になる」ことです。
「...?」
「夢中」っていうのは、「無我夢中」の夢中です。
「夢中」になると「私」が無くなります。
行為に没頭してたら「夢中になってしまった。。。」
気付いたら夢中になってしまってた。。。
「我に返った」とき、はじめて「夢中だった」ことに気付くのです。
夢中の最中は、「夢中であること」にも気付きません。
それどころか、没頭してると、「痛み」にも気付きません。
指が痛くてもコントローラーを握って「夢中でゲームをしてる子供」です。
後から指が痛いことに気付くのですw
「私」=「観測する者」=「認知するもの」が居ない状態です。
だから「痛いこと」にも気付けないのです。
「夢中である」ことにも気付けないのです。
「私」が居ない状態
夢中の最中は、
「私」=「観測する者」=「認知するもの」が居ない状態です。
このとき
「常識」も「世間体」も、
「好き」も「嫌い」も、
「正しい」とか「正しくない」も
全部無くなります。
認知出来ないのです。
認知する者が居ないから。
そこから ( ゚д゚)ハッ! 「我に返った」とき
ゆっくり意識が現実に向かいます。
まだ「夢中の状態」を引きずりながら。
その過程で「認知するもの」、
それは、
「正しい世界」です。
すべてフラットに観れる状態です。
「ダイヤモンド」と「そこら辺に落ちている小石」の区別がつきません。
両方とも「この世界を構成している大切なひとつ」として認知します。
「優劣」はありません。
「比較」も「評価」もしません。
ただありのままを観れる状態です。
色眼鏡で観ていません。
自分の見たいものだけを見ているのではありません。
だから「気付く」とか「思いつく」ことが増えるのです。
認知するものが微細になるから格段に増えるのです。
「夢中」とは状態のことです。
「何かをした」からなるものではありません。
「何をするか」はどーでも良かったのです。
何をしてようと、ある共通の「条件」のようなものに、
自分をぶっ込めばいいのです。
「コツ」のようなものです。
だから何か「自分が夢中になれること」を探すのではなくて、
さっさとその状態(=夢中)になればいいのです。
そしたら見つかりました。
自分の「夢中になるべきこと」が。
まとめ
と、まぁ、よくここまで理屈を繋げたなぁ、
と、自分でもそう思いますw
でも、いつも「論理」や「理屈」は「後から」です。
大抵はそうです。
「自己啓発本」とか、「成功法則」とか、
成功した人が、成功したあとに振り返ってみて、
後から自分の経験を辻褄合うように書いてるのです。
自分はこうだった、と。
私がそれに当てはまるかどうかは別です。
何だかんだ言っても、「夢中」の体験は「体感」です。
「論理」や「理屈」は、「夢中」になったら、どーだって良いのです。
まず「夢中の状態」を「体感」して欲しいです。
そしたら私は、夢中になって「やるべきこと」が見つかりました。
「あー、これをやってたらいいんだ」って。