わたしがこの本を読んでる途中で思ったのは、
「あっ、この本は『実践の書』だ。」
ということだった。
本気で「さとり」に導こうとしてる。
そう感じた。
なぜかっていうと、
同じように、そう感じた本に出会っている
ことを思い出したからだ。
『超シンプルなさとり方』は実践の書?
もちろん書いてる内容は違っている。
違うんだけど、根っこのところは似てて、
同じく実践の書だなと思ったのは、
読んでて、
「これならさとりに近づくかも。。。」
と感じさせられたからだ。
(「さとり」に至るには、いろんなルートがあるのかもしれない。。。)
とはいえ、これは、
いまだに「さとってない人間」が言う、
ただの感想でしかなく、
なんの説得力もないことは、書いてる本人がよく分かっている。
『超シンプルなさとり方』は人間全般向け
この本は、私のような、
ことばを知らない、何の専門性もない者でも読めるような、
易しいことばで書かれている。
(たぶん、そういう風に意図してことばを選んで書かれている)
タイトルの一部に
「さとり」なんて、つけられてしまったら、
たいてい手にとるのは、私含めて、
その筋の方たち(病んでる)
(人生の落とし穴にハマっている)
だと思うが、
内容はというと、
「人間全般向け」に書かれているもので、
むしろ「さとり」なんて必要ない、
あたまが良いがために、
「今、人生上手く行ってる系の人たち」
の硬いあたまをカチ割って欲しいのに、
タイトルに「さとり」と入れたことで、
その人達にこの本は届かないという、
マーケティング失敗なにおいがぷんぷんする。
(まぁ、そういう人たちが読んでも、内容は響かないんだろうな。
弱者を助けるのは、いつも弱者だ。)
『超シンプルなさとり方』が安っぽく見えるのはトラップ?
「さとり」という高尚なテーマと、
扱ってることばの平易さが、
一見、内容が安っぽいと錯覚するかもしれないが、
(実際この本は文庫本サイズで、薄っぺらく、
定価¥552+税、と安っすいのであるが、、、)
これは人生のトラップだと、
どこかのロック・ミュージシャンが言っていた。
『人生はいかに安っすいソープ・ドラマ
(昼ドラとか?)で泣けるかだ。
なんかいかにも難しく
・人生の淵の極限を描いた映画が、
高尚であると錯覚させられるが、
実はそれが人生のトラップである』
(どこかのロック・ミュージシャンより)
、、、と。
『俺たちが生きてるのは、毎日近所のスーパーで、
割引されてるお惣菜を買っている、
まさに、そういうところ(場)で生きてるのであって、
死ぬときみたいな、
そんな人生のうちたった一度しか出会わないような
極限の状況なんかは、
そのとき味わえばいいのであって、、、
要するに、どーにかしたいのは、
今、
スーパーに行ってお惣菜を選んでる俺なのである』
(どこかのロック・ミュージシャンより)
、、、と。
さとりに至りたい、救われたいと思っている多くは、
一般大衆ピープルで、
けっして、その道の修行僧や、学識高い研究家ではないはず。
「さとり」とは、
「こーこーこーでぇ、こうなってこういう風な理由からぁ、
これが導き出されてぇ、、、つまりは、こうなのであってぇ、、、
そのためには、これとこれとこれを実践しつつぅ、これもやってぇ、、、」
そうじゃないっ!
高尚に見えるけど、、、
「分厚い本」に、価値がある分けじゃない。
「複雑な本」に、真実が書かれているわけじゃない。
(複雑にするのは、他に意図があると思うのだが、、、)
現に、古くから今でも読まれ続けている
『般若心経』は262文字と短い。
『超シンプルなさとり方』の主張は一貫してこうだ!
そういう意味でも、この本は分かりやすく、
主張は一貫してたった一つで、
「さとる」ためには
「思考はわたしではない」
と分かれ、どーにかして分かってくれ頼むっ、
この一点だ。
ことばを変え、表現を変え、
さまざまな状況(シチュエーション)を交えて、
まるで多方向から光を当てて
この一点のみをくっきり浮きぼらせようとするような、
読んでる人が、読んでいながら、
同時にその一点に向かって意識が集約される、
「これがさとりかもしれない!?」
と思わせる「しくみ」があるように思う。
その結果、
定価¥552+税の薄っぺらい単行本という、
一見安っぽく、
内容もどうせ
「○○という考え方をしたら、
なんか、ふわっと一瞬でも救われた気になりまっせ」的な、
ちまたにあふれる本と同じ感じに思われてしまうという、
実にトラップ感に満ちた本となっている。
『超シンプルなさとり方』は「道徳的なこと」は書いてない
この本で語る内容は、決して、
「道徳的」にこういう風に考えたら良いですよ的な、
金満ボーズが世間のニーズに忖度して説いてる
(♪ボーズがニーズに忖度するw)
たぐいのものでは無く、
「この世界はこうなっています。
すべての問題の根本はこれです。
その根本を無くす術はこれです。」
と合理的・実践的に、かつ平易なことばで分かり易く、
誰でも読みやすく、
「さとり」まで導こうとしている。
もちろん、霊的(魂がどうとか)とか、
(変な意味での)宗教的(神がどうとか)なことは出てこない。
(「?」ってなるような表現は出てくるが、
たとえば「大いなる存在」とか、「ペインボディ」とか。。。
それは便宜上そう表現していると、この本の中で言っている)
『超シンプルなさとり方』がいう、「時間は存在しない」とは?
その合理的・実践的な説明のひとつを紹介する。
「時間とは幻」
「思考しているときにだけ存在するのが時間」
つまり、完全に100%「今、ここに在る」ときは、
「不安」や「苦しみ」は無いと。
「期待」すら無い。
「時間が存在しない」とはそーいうことだと。
思考するのを全否定しているのではない。
さとった人は、
思考するときとしないときと、使い分ける。
”さとりをひらいた人は、目的があるときだけ、思考力を使うものです。
その使い方は、さとりをひらくまえよりも、ずっと効率的です。”
(『超シンプルなさとり方』本文より引用)
思考すべきこと・ときに思考を使うのだ。
思考は道具の一つ。
決してわたし自信ではない。
土砂降りの日でも
毎日ずっと使っていたら刀は錆びてしまう。
ほんとうに使うべきときのために、
刃を研いでおく時間も必要なのだ。
『超シンプルなさとり方』を読んで実践してみた。
読みながら、どういうことか分からないながらも、
なんとかそれを体感・再現しようと試みていると、
不思議と
「思考・感覚・感情・気分」
が変化していることに気付いた。
たとえば、どういうことかというと、
この本の中でしきりに言っている
「思考を客観的にながめる」とか
「動作に意識をすべて集中させることで、思考活動を遮断する」、
これを自分でこーかな?、あーかな?と再現してみる。
そうすると、本書が言うように、
”思考がおしゃべりをやめると、「無心状態」が生まれます。最初のうちは、無心状態は、ほんの数秒間しかもたないかもしれませんが、心がけ次第で、だんだんと、長く続くようになります。無心状態のときには、「心の平安」を実感するはずです。”
(『超シンプルなさとり方』本文より引用)
”「『ほんとうの自分』がいる」ということが、だんだんわかるようになってきます”
(『超シンプルなさとり方』本文より引用)
とか、
”経験をつめばつむほど、よりいっそう深まってきます。これには限界がありません。”
(『超シンプルなさとり方』本文より引用)
とのこと。
私が感じた、そのときの体感を、
少し乱暴だが、一言でいってしまえば、
「心地良さ」だ。
(本書では「心の平安」の度合い、と言っている)
「心地良さ」といっても、
なんかぽわーんとした、
眠っているような安全地帯にいる状態ではない。
酒飲んだときの酩酊状態や、
人をダメにするソファーに沈み込んでいるような、
そういうのではなくて、
むしろシャキッと覚醒して、
隅々まで意識が鮮明にいき渡っているという感覚、
「凛としている・清々しい」感じの「心地良さ」だ。
(決して、コーヒー飲み過ぎて、
カフェインで興奮しているような状態ではない)
それは、この本の中でもちゃんと謳っている。
”「意識が鋭敏であると同時に、考えごとをしていない」という状態。”
(『超シンプルなさとり方』本文より引用)
あと、エネルギーが生まれた。
ずっと「掃除しなきゃ」と思っていても
億劫で、なかなか動き出せなかったのが、
「掃除でもすっか」と自然に動けた。
「知識」と「体感」が一致した瞬間だ。
思考(存在しない問題)に割かれていたエネルギーが、
余計なエネルギーが、
やるべきことに回った?
小さなことだけど、この感じを、
台風のような渦みたいに少しづつ勢力を拡大していったら、
そのうち大きなことも出来るような気がする。
努力なく、
なんか気付いたら自然にそうしてしまっていた的な。
まとめ
ということで、
ケチってこの本を図書館で借りて読んでいたのだが、
しばらく毎日「実践の書」として
いつでも手元に置いておきたいと思ったので、
本屋にGO!して買ってきた。
ただ一つ、これってどうなの?って思うのは、、、
こういう本を読んで
「わたしさとったよ!」っていう人に、
一人も出会ったことないこと。
Amazonの書評読んでも、
「この本良いよ!」「わたしも実践してみようと思います!」
ってのはあるけど、
「結果、さとったよ!」というのを見たことがない。
(まぁ、この本に限らずだけど、、、)
ぜひ、そういう人の感想を聞きたいし、
この本じゃなくて、この本でさとったよ!
ってのがあったら教えていただけると嬉しいです。
以上、
では、また。