【※ネタバレ的】「大いなる存在」とは何なのか?~とりとめもない考察~

【※ネタバレ的】「大いなる存在」とは何なのか?~とりとめもない考察~

『超シンプルなさとり方』のキーワードとなっている

「大いなる存在」。

 

これと「いつも繋がっている」というのが

「さとる」ことだと。

 

「大いなる存在」は、

傷つけられたり、破壊されたり、

触れることさえできない存在である。

 

ずっと心に残っていた、あの歌のあの歌詞と繋がった。

ここから一歩も通さない

理屈も法律も通さない

誰の声も届かない

友達も恋人も入れない

(『月の爆撃機』THE BLUE HEARTSの曲)

 

だから、いつ、いかなるときも、

絶対的な「安心」であると。

 

本書でも、その繋がっているという尺度を、

「安心の度合い」で計ると言っている。

 

「大いなる存在」を、ぼやかす理由

私の感想だが、

本書内では「ぼやかされている」と感じた。

 

「神」と表現してみたり、

「ほんとうのわたし」と言ってみたり、、、

 

なぜ「ぼやかしている」のか?

 

それは、この「大いなる存在」に

リアリティを持たせたいから。

 

だったら、ハッキリと

「こういうものだよ!」って

言えばいいじゃないかと思うが、

 

そう言ってしまったときに、

必ず「そうじゃない!」という反論が成立してしまう。

 

上手く伝えにくいが、

たとえば、「愛」。

 

「愛とはこういうものだ!」

と言い切ってしまった場合、

 

誰かにとって経験上そうだとしても、

 

誰かにとっては

「いや違う。愛とはこういうものだ!」と、

人の数だけ無数の反論が可能だ。

 

それがたとえ微細な違いでも。

 

明確に「これはこうだ!」と決めた瞬間、

存在がぼやける、矛盾が生じるという、

皮肉な現象が、

「論理」とか「ことば」にはあるのだ。

 

 

話を戻すと、

「大いなる存在」は、

なによりも

 

完全無欠の絶対的な拠り所

でなければならない。

 

それには、その存在が

ハッキリとリアリティを持っていなければ

ならないのだ。

 

なによりも、というのは、

私たちが「わたし」と思っている

(勘違いしている)、

「外界」や「思考」よりもだ。

 

「外界」とは、

私が「わたし」である根拠とみなしている、

「経験」「知識」「肩書き」、、、など。

 

「思考」とは、

まだ起こってもいない、

「心配、憶測、推理、分析、不安など」

また、「期待、希望」なんかも。

 

それと、

今、この瞬間起こっているのではない、

過去にあったであろう

「後悔、反省」

あと、それに伴う「栄光、自信」。

 

これら「外界」と「思考」が、

「わたし」であるという風に思いがちなのは、

 

私たちにとって、とてもリアリティがあるからだ。

 

だから、

「わたし」=「外界」「思考」を、

「わたし」=「大いなる存在」に変えたい。

 

そのためには、リアリティが、

「大いなる存在」>「外界」「思考」

にならなければいけないのだ。

 

 

今は

「自我」≒「外界」「思考」だけど、

 

それを、

OS「自我」→ OS「大いなる存在」

に入れ替えたい。

 

言い替えると、

「移り変わるもの」

「完全無欠の移り変わらないもの」へ。

 

「大いなる存在」は創り上げるもの

本書で言ってる「さとりに至る方法」は、

いうなれば、

この「大いなる存在」を

 

完全無欠の確固したものに

「創り上げていく作業」なのではないか。

 

今は微かに感じる火種を、

永遠に消えることのない大きな炎にする。

 

個人的な想像だが、

 

「丹田」とか「気」というのも、

練れば練るほど実感が強くなるという、

まさに創り上げるものなのではないか。

 

そういう機能が人間にはあるのではないか。

 

「知識」という無数の光で、

様々な角度からただ一点照らすことで、

明らかにしていく

 

あるいは、

 

瞑想など重ねることで、

「大いなる存在」が

確かに「在る」という実感を強めていく

 

創り上げる「大いなる存在」は、ひとそれぞれ。

感じ方も、

自分の内の身体の一部、

 

たとえば

お腹のあたりが暖かい、とか、

 

頭の中心が凛と静まり返っている

ハッキリとした感覚がある、とか。

 

メタ認知的に、

自分の外で自分を観察している存在、とか、

 

あるいは、

本書でいう「湖の深い底」が

ありありと一緒に居るという感覚。

 

それは、

自分の中にあるものだとか、いや外だとか、

イメージとか、どこに在るとか言えない、

 

それでもハッキリとリアリティをもって

「在る」という存在。

 

「場」である必要もない、時空を超えた存在

 

ひとそれぞれの「大いなる存在」

 

だから、呼び方は何だっていい。

「X」でも、「it」でも、「なにか」でも。

 

必要なのは、「リアリティ」。

 

 

終わりのない「大いなる存在」の追求

完全無欠の存在でありながら、

ちょっとでも意識を外すと、

感じられなくなるもの。

 

とても深く、

どこまでいっても終わりのない極小の一点

 

こういうものを追求することが、

人生で最高の暇つぶしになるのではないか。

 

意識が鋭敏であると同時に、考えごとをしていない、という、「無心状態」

(『超シンプルなさとり方』本文より引用)

 

人類みな、ここを目指すべきである、

おおげさでなく、ふと、そう思った。。。