宮本武蔵の残したことばの数々を見てると、どうしても”さとり”の境地のことを言ってるようにしか思えないのだが…
芸事も達者だったとか…
・木彫り
・書
剣を極めたものがなぜ?
そこら辺も紐解けたらと…
- 1. 我、神仏を尊びて、神仏を頼らず。
- 2. 構えあって構えなし。
- 3. 初めの少しのゆがみが、あとには大きくゆがむものである。
- 4. 体の大きい者も小さい者も、心をまっすぐにして、自分自身の条件にとらわれないようにすることが大切である。
- 5. 役に立たぬ事を、せざる事。
- 6. 心、常に、道を離れず。
- 7. 身を浅く思ひ、世を深く思ふ。
- 8. 一理に達すれば万法に通ず。
- 9. 何れの道にも、別れを悲しまず。
- 10. 我、事において後悔せず。
- 11. 一生の間、欲心を思わず。
- 12. 空を道とし、道を空とみる。
- 13. 観見二つのこと、観の目つよく、見の目よわく、遠き所を近く見、近き所を遠く見ること、それが兵法の要である。
- 14. 打ち込む態勢をつくるのが先で、剣はそれに従うものだ。
- 15. 人のまねをせずに、その身に応じ、武器は自分の使いやすいものでなければならぬ。
- 16. 平常の身体のこなし方を戦いのときの身のこなし方とし、戦いのときの身のこなし方を平常と同じ身のこなし方とすること。
- 17. 世々の道を背くことなし。
- 18. 道においては死をいとわず思う。
我、神仏を尊びて、神仏を頼らず。
神仏という”はっきりと有るのか無いのかわからない概念”は尊びはすれど、頼ることはない。
頼るのは、己の中にある確かな”存在”のみ。
。。。なのかな。。。
構えあって構えなし。
「構え」なんて移り変わるもの。
新たな構えが構築されれば、それを破る構えがまた構築され、、、
『五輪の書』では、よく「拍子」ということばが出てくるが、相手との間合い・タイミングなど、いろんな意味合いを含むようだ、、、あまり「技」とか「構え」については書かれていない。
技術的なことよりも、相手の『虚』を突けということでは?
そっちの方が抽象度高い。勝敗を決め得る。
初めの少しのゆがみが、あとには大きくゆがむものである。
すなわち、「初めの少しのゆがみ」に気付け!と言っている!?
”さとり”をえた者は、「認知の網目」が密になる。
悪い方に行きそうな気配がしたら、その無限小の段階で気付くことが出来る。
そしてできるだけ早いうちに止める。
ことが大きくならないうちに。
体の大きい者も小さい者も、心をまっすぐにして、自分自身の条件にとらわれないようにすることが大切である。
認知の偏り。
状況は、自分自信だけで成り立つのではない。
役に立たぬ事を、せざる事。
自分の問題だけを問題にしろ。
心、常に、道を離れず。
道、、、今の『在り方』のことのように聞こえる。。。
身を浅く思ひ、世を深く思ふ。
”さとった”あとの境地か?
大きくなりがちな「自我」は小さく、
小さく捉えがちな「それ以外」は大きく。
丁度、優劣も比較も出来ないくらい、同等になる。
一理に達すれば万法に通ず。
山はどこからどう登ろうと、結局は同じ頂上(”さとり”)に辿り着く。
頂上から見た景色は皆同じ。
何れの道にも、別れを悲しまず。
なぜ悲しむ(苦しむ)か。
未来(時間)があると思ってるから。
今しかなければ、苦しみ(悲しみ含む)はない。
今だけに在れ。
我、事において後悔せず。
なぜ後悔する(苦しむ)のか。
過去(時間)があると思ってるから。
今しかなければ、苦しみ(後悔含む)はない。
今だけに在れ。
一生の間、欲心を思わず。
欲を思わないことで得られるあの境地の素晴らしさを知っているから。。。
空を道とし、道を空とみる。
わからん。難しい。。。
誰か教えてください。
観見二つのこと、観の目つよく、見の目よわく、遠き所を近く見、近き所を遠く見ること、それが兵法の要である。
観方は一つではない。
ものごとをグルーピングしてみたり、比較したり、優劣つけたり、、、
情報を歪んで観ている。
打ち込む態勢をつくるのが先で、剣はそれに従うものだ。
姿勢、、、『在り方』
『在り方』ですべて結果は決まってる。
まず『在り方』ありき。
人のまねをせずに、その身に応じ、武器は自分の使いやすいものでなければならぬ。
自分の問題だけを問題にしろ!
平常の身体のこなし方を戦いのときの身のこなし方とし、戦いのときの身のこなし方を平常と同じ身のこなし方とすること。
”さとり”は一瞬。
無意識にいれば、”さとり”からは遠ざかる。
常に意識的にいろ。
意識するのは常に『在り方』のみでいい。
世々の道を背くことなし。
世々の道、、、たぶん「道徳」的な意味合いではないと思う。。。
この世界の”理”には背けない。
と言っている?
道においては死をいとわず思う。
「生きる」とか「死ぬ」ことを問題にしない境地。
その『在り方』を「道」と言っている。。。
武士といえば、常に死ができている者と自惚れているようだが、そんなものは出家、女、百姓とて同様だ。武士が他と異なるのは、兵法の心得があるという一点においてだけだ。
武士は己を知る者のために死す。
皆、同列。人間以上でも以下でもない。
兵法の心得なんてものは、後から身に付けられるもの。
それを自分のアイデンティティとするな。
己を知る者、、、”さとり”に至った者?
「仏道をならふというは、自己をならふなり」
(道元)