うちの(オス)猫は、生まれつき「たまたま」が一つ無かった。
拾った翌日、動物病院にいって健康状態を診てもらったとき、先生から言われた。
「一つないですねぇ」と。
先天的に一つしか無く産まれたか、あるいは、成長していくうちに降りてる子もいるそうだ。
希だが、もし後者で、ある程度成長しても降りてこず、体内の上の方に残ったままだと、ガンの原因になることもある、とも言われた。
今は小さすぎるからか、レントゲンで見てもハッキリとは分からないし、今すぐどうこうというものではないので、少し様子を見たらどうか、ということで今に至る。
これを書いてるときは9歳6か月。いたって健康で、病気という病気をしたことがない。
この調子でいこうぜ!
すべては「たまたま」だとしたら?
猫の「たまたま」のことを思い出していたら、偶然の「たまたま」に関して、こんな認知が降ってきた。
この世界の起きる現象が、すべて「たまたま」だとしたら?
(なんか、うちの猫をだしに使ったようで、、、すまん m(__)m )
そういう『世界の見方』をしたら、行動が軽くなるなぁ、とふいに思った。
見てきた物や聞いた事 いままで覚えた全部 でたらめだったら面白い そんな気持ちわかるでしょう
『情熱の薔薇』(THE BLUE HEARTS)
自分で考え出した「予測」・「計画」・「アイデア」・それらに伴う「行動」、、、等、実は「結果」はそれでは決まらないという世界。
もうそんな世界だったら、「結果(起きたこと)」に意味はないんじゃないか。
今やることを『楽しむ』しかない。たとえ「結果」が失敗だったとしてもだ。
『自我の肥大』も起こらない。
だって、自分の思考や行動が「結果」に繋がってないのだから。
「自信」が無くなる?
いや、「自信」なんてものは無い。文字通り「無い」。自信があろうが、無かろうが、そんなことは問題ではない、そういう世界。
そうすると、行動が非常に軽くなる。
自分が原因で、「誰か」が不幸になったり、幸せになったりすることもない。
自分が原因で、「自分」が不幸になったり、幸せになったりすることもない。
もう、ただやるだけ、楽しむしかない。
この「起きることはすべてたまたま」という『世界の見方』、妄想とは言いつつも、あながち間違っていないのではないか、と思うときもある。
『自由意志』は無い!?
人間に『自由意志は無い』とも言われるし、、、
(なんかそういう実験があったような、、、)
つまり、「行動」が先で、「理由」は後付けだと。
Q:「なんで今、アイロンから手を離した?」
A:「熱かったから」
・・・・嘘だ!熱いと思う前に(脳を介さずに)手が勝手に引っ込んだのだ。
すべての行動でこれ↑が当てはまるのではないか。ということだ。
あるユーチューバーの『世界の見方』。
ここで一つ、「あぁ面白いなぁ、いいな」と思った『世界の見方』を。
面白系(?)サッカー・ユーチューバーで、推しのチームの応援?勧誘?をしている大好きなチャンネルがある。
たまに言うのが、
「オレの言うことは、『日付以外ぜんぶ誤報』だから、あんまり信じるなよ w 」と。
(半分冗談で半分ネタ?なのか w)
この『日付以外ぜんぶ誤報』というのが、『生き方』として有りなのでは?と思ってしまっている。
なんでかっていうと、
「苦しみ」や「問題」の原因は、『思考』が自分自信だと勘違いしてるから。
(『超シンプルなさとり方』より)
つまり、『思考』は「わたし」ではないんだ。ということを、どうにか”さとれ”と言っている。
「日付以外ぜんぶ誤報」←これ、このことじゃねぇか?
結局、人生でやれることなんて、「自分をどうするか」しかないわけで…
起きる事象を「自分で完全にコントロール出来る」という思いはおこがましくて…
自分の死すら、決められないのだから。
自分が死ぬ日をカレンダーに書けるなんて、贅沢だわ!
『すべてがFになる』(真賀田四季)
コントロール出来ない「結果」に執着せず、やれることは「自分をどうするか」だけ。
その一つに、『この世界をどう見るか』というのがあると思う。
どう見ても勝ってだが、「起きることはぜんぶたまたま」とか「自分の言うことは、日付以外ぜんぶ誤報」っていうのは、なんか自分にはしっくりきた。
うちの猫へ一言。
「たまたま」などという、ごくごく個人情報を。。。
本人に許可は得ていない、無許可記事。
「ちゅーる10本で許してください。」
おなしゃす。
今回はここまで。
した。