【瞑想日記】更新中!

【#利己的】~「自分の問題」だけを解決してればいい。。

【#利己的】~「自分の問題」だけを解決してればいい。。

「利己的」というのは、究極に “我がまま” になること。

完全に “我のみ” で在ること。

「わたし以外」入る余地なし。認知に入れない。

 

ほんとうの「わたし」にのみアクセスしていくこと。

“無限小” への旅。

 

“中途半端” は、かえって「毒」になる。

 

目次

利己的の「己」が、どんな “己” に向って言ってるのか?

「自我」なのか、「 “無” 我」なのか。

このブログは「 “無” 我」に向けて言ってる。

“無い” のに向いてるって変だけど…(#わたし・自我

 

「利己的」でなきゃならない理由。。

 

「個人個人を尊重するべき」…違うな。。。

尊重するのは「理」。

絶対普遍の真理。

 

「理」と、「偏った自分の認知」とのギャップを解消する。(#偏り

 

もしも「他人を尊重する」なら、まず自分の中の矛盾や問題点を解消してから。

自分の問題が解決すれば、同時に他人のも解決する。

そしたら他人を尊重 “してしまう” 勝手に。。。

 

「自分の問題」も解決しないで、外ばっか見てる。。。

自分の中に「矛盾」が生じたまま、誰かの問題を解決しようなんて、おこがましすぎる。

「自己」を解決すれば、すべて解決するのに。。

 

自分と関係ない、「外の問題」ばっか扱ってて、何も自分に残らなった。。。(´;ω;`)ウゥゥ

 

余力が出たら、少しづつ外へ拡げていけばいい。

っていうか、 “勝手に” 「認知が拡がっていく」ので、「抱える問題」もそれに伴って “増えていく” もの。(#因果が逆

 

自分の「許容範囲」を超えてやるから、、、

人を巻き込んで、迷惑かけてしまったり、、、

責任とれんのか?

 

徐々に「許容範囲」を拡げていく

 

自分のキャパを超えて、何かを取りに行くと、

「 “逆” バキュームカー」になる。

 

「愚痴」・「不満」・「不平」という。。。

「糞尿」をまき散らして走ってるようなもの。

 

「問題」を拡散してしまう。

 

「愛」は “余りもの” で。。

自分の問題を解決してから。

 

自分の特性がある。そこから外れると苦しくなる。

同じ・近い特性を持つ他人が安心して居れるよう、自己を肯定していればいい。

ほんとうの欲求は、頭で考えて出てきたものではない。

 

役割を ”演じる” 。。。流れ着いてしまうもの。

 

得た「知識」をつかっても、間違えてしまったり、至らなかったり…

迷惑かけてしまったり、、、

責任がもてる範囲は、「自分の認知」”のみ”(#認知の密度

 

「余力」を増す

『超利己的』に自分の「ほんとうの欲求」だけを追求していく。(#ほんとうの欲求

持て余したもので、外に影響を及ぼす。

 

余力が無いなら、ずーっと自分に向いてろ

貯まって、溢れてくるまで。

余力で動いてたら、疲れることはない。

 

 

そもそも「利己的」以外、”ありえない”

「利 “他” 的」なんて、ほんとうに、あるのか?

 

猫のオケツをポンポン。

「人(わたし)」が好きなんじゃない。

このとき「(自分の)感覚」が好きなんだ。

抱っこすると、「イヤー(ニャー)」って言ってすぐ逃げるもん。。(泣)

 

誰かと居るとき、そのときの「 “自分” の感覚」が好きなんだ。

「人」が好きなんて無い。

 

「モノ」も同じ。所有してるときの、「自分の感覚」が好きなんだ。

物理的に何かを得たり・所有する必要はない。

 

情報的な操作さえできれば。。

 

「瞑想」やって分かるのは、「自分の認知」は ”選べない” ってこと。

「自分のこと」も分からないのに、まして「他人のこと」など分かろうはずがない。

「利己的」でしかアリエナイ。。

 

たとえば、「お酒」をどこまでOKで、どこから、、、の判断は、自分以外できない。

それと同じ。

自分以外の誰かに、「何リットルまで」「何杯まで」で決めさすな。

 

Google検索やYouTubeの上位の「一般的」情報を試しても上手くいかないのは、、

それが「一般的」だから。

誰も「一般的」に当てはまる人は居ない。

 

「平均値」であって、誰も平均値には居ない。

みんなそれぞれ違う。

 

「自分攻略法」を発見できるのは、「自分のこと」を知れる「自分」だけ。

 

「誰か(自分含む)の話し」は、どうやっても「切り取り」でしかない。

「状況・環境」がそうだったから、”そのとき” 「そういう認知・発想」をしたのだ。

 

たとえば「なりたい職業」

第一位「You Tuber」、第二位「、、、」、

コレは「時代背景」が分からないと、まったく「。。???」になる可能性がある。

そのときまで「You Tube」があるかどうか…

 

そもそも、切り取った情報(盲点が有る)でアウトプットされ、それを「認知の盲点」がある「わたし」がインプットしてる。

どこまでいっても「切り取り」でしかない。。(#比較・判断・優劣

 

「他者を愛す」も、ごく利己的でしかありえない。

自分に「愛したい」という欲求が湧いて、それを満たす以外できない。(#ほんとうの欲求

 

「相手の気持ち」が分かるんじゃない。

その状況になったときに、「自分の気持ち」が “どうか” を感じれるだけ。

分かるのは常に “自分はどうか”

 

自分の中に、その体験(データ)が無かったら、分からない。

だから、本(小説)や映画を観るんだ。(#◆読書

 

「役者」をやっていたい。。

ただ演じるのが好きなら、日常でいくらでも演じられる。

アホだけど、良い夫・妻を。ロマンティストな雇われ社長。屈託なく笑う農家の長男、、、

 

「役者をやりたい」とは、つまり、「承認欲求」を満たしたいのだ。

 

でも本当に「演じるのが楽しい人」は、その「感覚・感情」が好きなのだ。

 

「観た人の反応」が好き、、、?違う。

その反応を知覚した「 “自分の” 感情・感覚」が好きなのだ。

 

あくまで「 “自分の” 」感覚・感情だ。

 

どこまでいってもそれは、「自分の」認知で、「相手の」認知では “決してない” 。

なんでそんなことが分かるかっていうと、、、

自分の考えてること、感じてること、、、それらを100%理解して言い当てる人は、今まで一人も居なかったから。

それはそうで、自分が本当にどう思うか、感じてるかすら、自分ですら分からないのだから。

こんな複雑な、思考・感情・感覚、、、

♪生まれたところや 皮膚や目の色で いったいこの僕の何が分かるというのだろう?

『青空』THE BLUE HEARTS

 

分かってたら、その通りしてたらいい。。でも後悔したり反省したりするってことは、ほんとうに分かってなかったんだ。自分自身のことすらも。。

 

人にとやかく言える資格のある人間など居ない。

自分をどうにかするしかない。

♪ここから一歩も通さない 理屈も法律も通さない 誰の声も届かない 友達も恋人も入れない

『月の爆撃機』THE BLUE HEARTS

 

ほんとうに “自分ごと” にしてしまったら、「政治家」なんてできない。。

どれかを拾って、どれかを切り捨てる行為だから。

 

だから、本来なら、「自分の問題」 “しか” 問題にはできない。。(#新しい問題解決法

 

「感動」っていうのは、常に “自分の” 認知。

自分がどう解釈したか。。

「現象」 “そのもの” ではない。

 

「察する」、、、どこまでいってもそれは「自分の認知」

たしかに奥ゆかしい、カッコいいけど、、、そう思いたいだけ。

 

本来、「自分の感じたこと」 “しか” 言えないハズ。。

「自分のことしか言えません」「あなたがどうなるか、分かりません」

 

「誰々はこう言った」。。本で読んだ知識や、人から聞いた話など、、、

 

どっちが「無責任」か。。

 

(例)こんなとき「利己的」でない、、、

意識が「(外)向き」なのか、「(内)向き」なのか、、、(#意識の向き

 

(外)向きでいると、「ほんとうに “自分発” の欲求」で動いてるのか、、、 “動かされてる” のでは?

(内)向きでいると、「ほうとうの欲求」に従って動くので、楽。ほぼ自動で “やってしまう” 。

 

なんで「すきやき」が食べたいと思ったのか?

なんで「旅行」に行きたいと思ったのか?

 

「すきやき」を知った(認知した)から。

「旅行」を知った(認知した)から。

 

誰から知った?TV?

 

これらは「ほんとうの欲求」ではアリエナイ。

 

JAM #ほんとうの欲求

♪ 素敵なものが欲しいけど、あんまり売ってないから 好きな歌を歌う

『JAM』THE YELLOW MONKEY

 

身体に聴く

知識を得て、「○○が◇◇に良い」からって、食しても、、、

「う~ん、あんまり効果が感じられない、、、」

 

あるいは、

「しばらく続けなきゃ、効果は分からないんだ。続けてみよう、、、」

 

これだと、”ダメ” なのは、その瞬間、「今、不足(過剰)が何か」は、”変化” する。(#今に在る

 

それを無視して、妄信的に「身体の反応、欲求」を無視してる

これだと、外の情報にずっと操られる。

 

おい「科学」!そういうとこだぞ、

自分の「嗅覚」に重きを置くべきだった。。。(#意識の向き

 

○○を食べると老化が進む、、、?

そんなの “確かめようがない” 。。

それだけを食べて生活してるわけじゃない。

 

たとえば、「カフェイン」や「アルコール」には、ひとそれぞれ「耐性」がある

 

自分はどうか?しか分からない。

 

まったく実感しない情報にしがみついてないか?

「世間一般」はそうだろう…

「科学的」にもそうだろう…(「科学的」って何なん?なんで100%じゃないんだ?!

 

でも、自分はどうか?

 

自分をおろそかにしてないか?

 

世にある「名言・格言」は、その人の認知

「その人の攻略法」

他人に100%当てはまるものではない。

 

『己攻略法』を見つけよう。(#新しい問題解決法

 

万能と言われる「合谷(ツボ)」一つとってみても、ひとそれぞれ効果が違う

自分はすぐに「オシッコ」に行きたくなる。即効性あり。

そんなことはどこにも書いてない。

 

つまり、人によって様々。

 

唯一分かるのは、反応するということ。

しない人もいるだろうし。

 

自分はどうか?

これを確認しないで、他人の意見や科学的根拠を鵜呑みにすると、、、

 

たぶん「足つぼ」も、ひとそれぞれだと思う。。。

画像検索したけど、自分の実感とは違う。

 

皆違ってみんないい。

 

大切なのは、「自分はどうか?」を知ってること、知れること。

自分を知れば、他人の反応を見て、なんかできたりする(?)

まず自分から。

 

それでも “生きてる限り” 「迷惑」は “かけてしまう” もの

食べるし、うんこするし。。。

 

「迷惑」は最小にする。

 

「迷惑なんてかけてない」と思ってしまうのは、

認知できてないだけ。(#認知の盲点

認知してしまったら、とてもとても出来ない、、、

 

 

「利己的」であるから “こそ” 、「自己解決」できる

 

全部、「主観」である

だから「自己解決」できる。(#新しい問題解決法

 

「事象」そのものは消せない

問題や苦しみを、「問題・苦しみ」として認知するかどうかで、決まる

 

自分も「人間」。他人も「人間」。

自分の「問題」は誰かの「問題」。

結局、誰かの問題を解決してることになる。

 

「世界(外)」を知るよりも、「人間」のこと、を知ればいい。

世界は人間の解釈。

 

「人間」とは、つまり、「自分(内)」を知ればいい。

 

「認知が密」になると、理解が多くなるので、「○○はこうだ!」なんて言えなくなる。

ましてや、他人に対して、無責任に、「○○すべき」なんて、、、

 

「分からない」というのが本当なのに。

認知できてない部分が大半なのに。。。

 

「認知が密」になると、「自分の問題」 “だけ” に注力 “せざるを得なく” なる。(#認知の密度

 

武道の達人は、明確に “表現” できる

相手に、”いつどうやって斬らせるか” 、コントロールできる。

そのように見せる(表現する)ことによって。

 

「こう見せると、こういうふうに反応するんだな…」っていうのを “自分自身で” 「体感」すればいい。

 

「攻略法」は皆んな違う

相手がどう反応するか…

無意識をコントロールする?

 

他人の反応は、自分のキャラ(容姿や使う言葉、経験など)によって違ってくるから。

(同じ言葉でも、キムタクが言うのと、俺が言うのと、反応が違う。)

(ジャパネット高田も同じ。「イチマンキュウセンハッピャクエ〜ン」って俺がいっても誰も買わない、、、)

 

自分のキャラに収束するのが楽。

「ゲーム」のキャラは誰にとっても同じ特性を持つけど、「現実・人生」においては、ぜんぶ違う。

だから、『「己」攻略法』を見出さないとダメ。

 

外からの情報は参考。試してみる。

でも、大方、外れる。

自分の中から出てくる疑問の方が、自分と『縁』が近いはずだから。

 

“独り” で「自分自身」を掘っていったら、 “唯一無二” の「研究結果」に辿り着く

 

何かに “すがりたい” なら、「自分自身」にしとけ。

振り回されるぞ。

 

<歌詞和訳>Man In The Mirror – Michael Jackson

僕は鏡の中の男と向き合う事から始めるよ
「変わる覚悟はあるか?」と問いかけるんだ
こんな明確なメッセージ、他にないよね
世界を良くしたいなら
自分と向き合い、まずは自分を変えるんだ

Man In The Mirror – Michael Jackson

 

自分の問題に取り組んでいたら、

「真剣」に “ならざるを得ない” 。

「死」を超えて、”存在してしまう” ものだから。

 

真剣になれない、、なら、つまり、そういうこと。(#緊張・拮抗

 

「偽善」なんて無い。アリエナイ。

「利 “他” 的」が無いのなら、「利己的」しかないのなら。

「偽善」なんて存在しない。

 

「あーだこうだ…」色々言ってるが、

それらは「私の認知」であって、「あなたの認知」ではない。

これ「認知→💩」に入れ替えてもいけるなぁ。。

それらは「私のうんち💩」であって、「あなたのうんち💩」ではない。

 

「あなたはどうか?」が、 “あなたにとって” 大切なんだ。

 

「私のうんち💩」をいくら知っても、それは「あなたのうんち💩」ではない。

どんなに「知識」を学んでも、それは、発言者のことを “知ってる(学んでる)” だけ。

 

知らなければいけないのは、「あなた」のこと。

 

「成功法則」とかも同じ類。

たとえ「ブッダの言葉」であっても…

「それは “あなたの認知” ですよねぇ…」

 

一番の関心事が「自分」

「身に付けるもの」は「自分」ではない。

「役職・肩書き」は「自分」ではない。

「…」は…「自分」ではない。

 

ずーっと掘ってった先にあるもの…

 

どこにも無かった、「自分」なんて。(#わたし・自我

 

大事なのは、「 “誰が・何を” 言ったか」ではなく、

「 “あなたが” どう感じたか」、だ。

 

~「自分の問題」だけを解決してればいい。。

 

「利己的で在る」というのは、結局のところ、自分だけを観てろということ。

自分のことしか分かりようがない。

 

外界の現象に対して、自分がどう反応したのか。

思考・感情・感覚。。

 

それに伴って、どう行動して、結果がどうなったか。

 

自分が止まってなかったら、ちゃんと観れない。

ちゃんと観る。ちゃんと観ようとしたら、自然に止まる。

 

~ ごあいさつ ~ ハチ@夢中

瞑想やってます。日記書いてます。 ウソかホントか、よく分からない話を読んでくれてありがとう。自分が「認知した世界」を少しづつ書き溜めてます。 (♪素敵なものが欲しいけど あんまり売ってないから 好きな歌を歌う 『JAM』THE YELLOW MONKEY) 自分の頭の中を覗かれるようで恥ずかしいけど、公開します。(後悔しません!) 「ここが違うよ!」「それは分かる」「合ってるよ!」何でもご意見・ご感想頂けると嬉し いです。(難しいことは分かりませんw)