意識を向ける「方向性」だけなんじゃないか?
向けてる「時間」と。。
“幸せになりたい” なら、「幸せ」に意識を “向け続ける” 。
何をするにも、しないにも、
あとは “勝手に” 幸せを感じる力(?)が付いていく
自転車だって、なんだってそう。
まずは「安心・安全」を創ろう。(【#安心・安全が土台】~『安心・安全』だけを抱えて生きていく。)
それには意識は(内)へ向けるんだ。
この記事で言う「意識」は「向き」でしかない。「ベクトル」のように「量」は持っていない。
「→」の横棒「ー」は無い。「>」と「・」で表す。
「意識の “領域” 」の話しとはまた別。。それは「認知領域」で表す。
意識は(外)へ向きがち。
すぐ「意識」は何かに「執着」しようとする
外しても、また次の何かへ、、、(#認知を「外す」)
「わたし」をつくろうと、意識は(外)へ向かいがち。
能力・肩書き・名声・お金・モノ・、、
「ほんとうのわたし」は自分のずっと奥の奥(内)に在るよ。(#わたし・自我)
といって(内)に “向かわせる” 。
どこだ?どこにいるんだ?と「わたし」に “執着” し過ぎたら、「わたしなんか無いよ」と “破壊する” 。
そしたら、もう「わたし」を問題としない。
偏ったら解消する方へ。(#偏り)
日本が(内)向きなのは、昔から「災害」が多いからなんだって。
この世界(の現象)にはどうやっても抗えない。
「わたし」なんかでは…
「世界」の “一部” に「わたし」が在る。
矢印の向きは、「世界」→「わたし」
「世界」から「わたし」を観てる。
西洋哲学は(外)向き
東洋哲学は(内)向き
意識が(外)向きか(内)向きかは、何で決まる?
『わたし』起点か、「世界」起点か。
『わたし』起点になりがち。偏りがち。
だから「戒め」があったり、「許し」があったり、、偏り具合・状況によって使い分ける。
「戒め」や「許し」そのものに固執しない。ましてや意味を深掘りしない。
「意識」を(内)に向けると、どうなるのか?
意識の向け先によって、
「思考」がそうなる。
「認知」がそっちしか拾わない
「行動」は、その「認知」した中から「選択」される
内に内に限りなく “無限小” に向くことで「認知が繊細(密)」になる
「感覚」が “繊細” になる。
“高精度” 「メガネ・フィルター」になる。
センサーの「焦点」が、”無限小” に合う。
すると、「認知量」が増える(#認知の密度)、
「認知領域」が拡がる(【#認知領域】= 今この瞬間の『わたし』。「許容する」「包含する」)
その状態で(外)に向かうから、情報が多く入ってくる
これが「気付く」「思い付く」
「自分の反応」を観るんだ。それだけで分かることが多い。
ずっと意識は(内)に向けてる。
何を見てても、何をしてても。
それを見て(して)自分がどう反応したか、を注意深く見守ってる。
データが貯まれば、自分が何にどう反応して変わるかが分かる
「自分攻略法」がまた一つ積み上がった。(【#利己的】~「自分の問題」だけを解決してればいい。。)
自在に「振る舞え」る、とは、相手をコントロール出来ること
「自分がこう振る舞ったら、概ね人間はこう来る…」
武道の達人は、「いつどこで斬らせるか」、相手をコントロールする。
いつ、相手に隙を見せるか、或いは見せないか…振舞える。
外の現象に振り回されてたり、 “鈍感” であっては、自分の「振る舞い」をコントロールできない
意識は常に(内)向きでないと…
竹中直人の「笑いながら怒る人」
心は笑っても、怒ってもない
自分の特性を知る
意識が常に(内)向きで自分に向いてると、自分の特性に気付く。
外の現象に対してどう反応したか、ずっと観察してるから。
自分の特性は、自分そのものではない
ここを切り離せると、もう「外の現象」に巻き込まれない、振り回されない。
すべての一瞬は、大きな流れの一幕に過ぎない
あんまり「小さな変化」に一喜一憂しなくなった…
どこまで “この”「小さい」範囲を拡げられるのだろう?
そこへ向かおう。。(【#認知領域】= 今この瞬間の『わたし』。「許容する」「包含する」)
「興味」が(内)に向いてたら、”退屈しない”
いつどこでも遊べる。
【実例】「意識」に「 “意識的” で在る」か「 “無意識” で在る」か、、
「恐怖」を感じてるときは、「意識」のうち、いくらかを “取られている” と考える。
意識は 100%「行為」に向けるべき。(【#今に在る】)
「結果なんかしらね」
やってる最中に、「結果」なんかに意識を割かない。
「出る前に負けること考えるバカいるかよ!」
アントニオ猪木
「ダイエット」ですら、『無意識』でいたため
どこまでが必要な飲食なのか?注意深く観察してなかった。
気分を引きずる…
「意識」がありもしない「過去」に行ってる…
(【#「時間」は存在しない】~『時間なんて無い』とした方が、辻褄が合うことが多いし、 なにより、自分にとって都合が良い。)
辛い経験、重要な役回り、重い想いを…
「精神的成長」を “実感しない” のは…
結局、「何が違った」のか?
それらをただ『無意識』に素通りしたか、
『意識的』に「どう対処するか」意識を向けたか。
対抗する→より反発が強くなって返ってくる→これじゃダメだと気付く
→気にしないようにしても、気になってしまう→これもダメだと気付く
→受け入れるしかない、許容する
方法はどうであれ、こういった過程を踏んでない
意識を、事象(外)に向けてたのか、自分のダメージ(内)はどうか、どう反応したかに向けていたのかの違い。大きい。
意識が無くなるのは、
気絶してるか、寝てるか。
起きてる間は、何かしらに焦点を当てている
それがずっと、苦しみや問題だらけなら、そりゃキツイ。
選択できるよ。
極寒の中、エロは働かない
エロなんか認知してる場合じゃない
より強烈なものに意識は奪われる
「サウナ→冷水」
スッキリするのは、一瞬でも「心配ごと」が無くなるから
一心不乱に祈ることで、「病んでいる」という「認知を外してる」んじゃないか?
だから唱える「お経」は、本来は「意味不明」じゃないと駄目なんだ。
「唱える」という行為に没頭、夢中に成るために、
「病」から「認知を外す」ために、、、
「お経の意味すること」にも意識を割いてはならない。
最後は完全に『無我』になることを目指してる。
あらゆることから「認知を外す」。
昔、「速読」の通信教育で、メトロノームに合わせて、黒丸(●)を目で追う訓練をしてた。
最終的には、もう無理っていうスピードまでもっていくのだが、着いていけなくて辞めた。
眼球が悲鳴を上げた。
なんとなく思ったのが、あれは、「目」や「視覚力」を鍛えるのではなくて、「意識の焦点」で文字を見ようとする訓練だったのでは?
そう思うと、そういや他の奇抜な訓練も、「意識」を操作するものだったと、合点がいく。みかん集中法とか、、、
修行僧って、世間話をしたり、独り言いったり、無駄口を叩いてるイメージはない
それはそうで、そんなことに意識を向ける暇などない。
常に自分の『在り方』を見張っている(意識的で在る)のだから
「意識」を(内)へ向けよう!
自分は止まってて、向きを変えるだけ
意識の向きを。
回れ右
踏み出すと、ストレスが発生するし、
情報を取り逃がす(【#止まる】~「とまる」・「やめる」・「とめる」、、)
「意識の焦点」が合いやすいのが、自分に『縁』のあること
ここを追いさえすればいい
自分がどれだけ「自由」か。そこに意識を向けていよう。
「何をやってもいい」し、「何もしなくてもいい」
何かに「執着」してると、不自由なんだ。
そう、「 “自由かどうか” 」でさえ。。
ほんとうに自由なときは、、、
「自由か不自由かは、どっちでもいい。そんなことは問題じゃない」というときだ。(【#新しい問題解決法】~「問題」を「問題としなくなる」。相対的に。)
♪誰かに金を貸してた気がする そんなことはもうどうでもいいのだ
『誰かに金を貸してた気がする』『1000のバイオリン』 THE BLUE HEARTS
「努力すること」に焦点を置いてはダメ!
歯を食いしばって、嫌なことでも、、、
「好き」な人には勝てない、絶対。
あいつらは、寝なくても平気。身体壊れても気付かないんだ。
「好きになる」も無理!
「好き」は “なってしまう” もの、因果が逆。(#因果が逆)
「好きなこと」に気付く ←ここに焦点を置く
毎瞬。「俺って、これが好きなんだよなぁ」っていう「実感・体感」を原動力とする。
ずっと裏で「好き」が暗躍してる。(#ほんとうの欲求)
「空腹感」を使う
意識の向きが自動で(内)向きになって良い感じ。
腹が「減ってる」「減ってない」
「足りてる」「不足」の引っ張り合いの拮抗点の辺りを揺らいでる(#緊張・拮抗)
それが心地良い
どっちも同居してる。
どっちも在ることを、認知してる
自分の中に「不足」も「充足」も在る【#認知領域】= 今この瞬間の『わたし』。「許容する」「包含する」)
「違和感」、それは、「不自然だ」と感じること。
何に対して?
『理(ことわり)』に対して。
決して、移ろいゆく、社会的概念や、集団意識、一般常識などではない。
(【#認知領域】= 今この瞬間の『わたし』。「許容する」「包含する」)
意識は「今どこに在る」のか?感じてみる。
起きてるときは、常にどこかには在る。
何を認知するかは、意識の “置き所”
この意識が、万遍なく均等にあらゆるところに行き渡って止まったら完成か?
自在にするのが完成か?
できる・出来ない、を繰り返して、
できる、に収束していく…
なんだってそうだった。
意識を(内)に “向け続けている” だけ。