意識を向ける方向性だけなんじゃないか?
向けてる時間と。
幸せになりたいなら、「幸せ」に意識を向ける
何をするにも、しないにも、
あとは勝手に幸せを感じる力(?)が付いていく
自転車だって、なんだってそう。
まずは「安心・安全」を創ろう。
意識の向け先によって、
思考がそうなる。
認知がそっちしか拾わない
行動は、その認知の中から選択される
意識が向いてる方の情報しか認知できない
意識の焦点が合いやすいのが、自分に縁のあること
ここを追いさえすればいい
「努力すること」に焦点を置いてはダメ!
歯を食いしばって、嫌なことでも、、、
「好き」な人には勝てない、絶対。
あいつらは、寝なくても平気。身体壊れても気付かないんだ。
「好きになる」も無理!
「好き」は “なってしまう” もの、因果が逆。
「好きなこと」に気付く ←ここに焦点を置く
毎瞬。「俺って、これが好きなんだよなぁ」っていう「実感・体感」を原動力とする。
ずっと裏で「好き」が暗躍してる。
「結果なんかしらね」
やってる最中に、結果なんかに意識を割かない。
「出る前に負けること考えるバカいるかよ!」
アントニオ猪木
意識が無くなるのは、
気絶してるか、寝てるか。
起きてる間は、何かしらに焦点を当てている
それがずっと、苦しみや問題だらけなら、そりゃキツイ。
選択できるよ。
極寒の中、エロは働かない
エロなんか認知してる場合じゃない
より強烈なものに意識は奪われる
「サウナ→冷水」
スッキリするのは、一瞬でも「心配ごと」が無くなるから
一心不乱に祈ることで、「病んでいる」という「認知を外してる」んじゃないか?
だから唱える「お経」は、本来は「意味不明」じゃないと駄目なんだ。
「唱える」という行為に没頭、夢中に成るために、
「病」から「認知を外す」ために、、、
「お経の意味すること」にも意識を割いてはならない。
最後は完全に『無我』になることを目指してる。
あらゆることから「認知を外す」。
昔、「速読」の通信教育で、メトロノームに合わせて、黒丸(●)を目で追う訓練をしてた。
最終的には、もう無理っていうスピードまでもっていくのだが、着いていけなくて辞めた。
眼球が悲鳴を上げた。
なんとなく思ったのが、あれは、「目」や「視覚力」を鍛えるのではなくて、「意識の焦点」で文字を見ようとする訓練だったのでは?
そう思うと、そういや他の奇抜な訓練も、「意識」を操作するものだったと、合点がいく。みかん集中法とか、、、
空腹感を使う
意識の向きが自動で内向きになって良い感じ
腹が「減ってる」「減ってない」
「足りてる」「不足」の引っ張り合いの拮抗点の辺りを揺らいでる
それが心地良い
どっちも同居してる。
どっちも在ることを、認知してる
自分の中に「不足」も「充足」も在る
意識を泳がせる #瞑想日記
留まろうとする意識を、一処に留まらせない。
気付くと止まる。一瞬でどこか他に向く。
気付きの連続
向くままに委ねる
思考に向いたり、感覚に向いたり、感情に向いたり…
この意識が、万遍なく均等にあらゆるところに行き渡って止まったら完成か?
自在にするのが完成か?
自分の特性を知る
意識が常に内向きで自分に向いてると、自分の特性に気付く。
外の現象に対してどう反応したか、ずっと観察してるから。
自分の特性は、自分そのものではない
ここを切り離せると、もう「外の現象」に巻き込まれない、振り回されない。