「猫が好き」これも偏り
猫と他のものを区別してる。優劣を付けてる。
でも、”してしまう” から、しょうがない。。。
- 1. 「偏り」を解消する(今も昔も世界はずっとこれだけをやり続けている)
- 2. 「わたし」もこの世界の『理』に順ずると ”楽” 。
- 2.1. 「偏りを解消する」方に行動する
- 2.2. 生きてるかぎり、必ず認知が偏ってる
- 2.3. 極度の「不安」も、「興奮」も「期待」も、『偏り』
- 2.4. ずっと同じ思考をグルグルとしてしまうのは、
- 2.5. 「人生なんか適当に送れ」、、、
- 2.6. 「手法・方法」・「何をやるべきか」は、
- 2.7. 「手放す」と「認知の偏り」が解消されるから、
- 2.8. 「ことば」を発するとき、、どちらか側に居る。
- 2.9. 世間一般に迎合しなくなると良いのは、、、
- 2.10. 「偏りのない認知」≒「まんべんなく意識する」
- 2.11. 「モノ」や「お金」じゃないんだなぁ。
- 2.12. 「認知」なんてものは生きてれば “必ず” 「偏っている」
- 2.13. 「(外界の)現象」に「価値」が偏りすぎ。
- 2.14. 「尖る」「偏ってる」から面白い!
「偏り」を解消する(今も昔も世界はずっとこれだけをやり続けている)
「偏ったら解消する」。ずっと前からそれを繰り返してるのがこの世界。
「回りて巡る」、、、?
同じことは二度と起きない
その瞬間しかない。刹那。(【#「時間」は存在しない】~『時間なんて無い』とした方が、辻褄が合うことが多いし、 なにより、自分にとって都合が良い。)
輪廻なんて無い
どこかで誰かが必ず気付く。
「あーまぁた脳が暴走してらぁ」(#脳の機能)
散々、環境を破壊して、「やっぱ環境破壊し過ぎたから、環境を大切にしようぜ!」
「偏りを解消する方」に動いてるだけ。
再び「環境を破壊する」日が来る。←予言ww
初めて聞いた曲も、「この歌は誰々の歌だ!」ってすぐ分かる。
特徴があるのだ。
つくった人のDNAだったり、生きてきた経験だったり、、、
ある意味「偏り」とも言える。
「偏り」≒「特徴」
「認知の偏り」から逃れられる人などいない。。。
意見なんて、状況や環境で一変する
統計調査や、一般論の不確かさ…サイレントマジョリティーもいる
唯一 “信頼できる情報” は「自分の実感」のみ(【#利己的】~「自分の問題」だけを解決してればいい。。)
だが、その実感も偏った見方…
そうなるともう、「分からない」というのが本当のところではないのか?
「何が原因で失敗したのか」、「何が要因で上手くいったのか」なんて、分かりようがないのではないか?
結果に一喜一憂したフリはしても、決して飲み込まれない。プロレスを見てるんだ。(【#プロレス】~この世界をどう観るか?)
すべてを「自分ごと」として捉えてしまうのも、偏った見方。今すぐ止める。
物事はそんなふうには決まらない。
「わたし」もこの世界の『理』に順ずると ”楽” 。
「偏りを解消する」方に行動する
運動不足なら、運動する
最初は効果高くて、だんだん減少していく…
“偏り過ぎ” のサインが「飽きた・慣れた」という “感じ”(#慣れ)
そのサインを感じる「センサー」が “緩い”のか、”鈍感”なのか、、、
あるいは、”ぶっ壊れて” ないか?(#認知の密度)
「意識が(外)ばっかり向いてた」ために、自分の “感性” をないがしろにした結果。(【#意識の向き】~(外)向きか(内)向きか、それが問題だ。)
生きてるかぎり、必ず認知が偏ってる
偏りが、苦しみや問題の原因
どーする?
一瞬々々、『認知を外し続ける』(#認知を「外す」)
メタ認知
だから”さとり”は一瞬だということ。(さとりは一瞬)
極度の「不安」も、「興奮」も「期待」も、『偏り』
それは「病い」「機能不全」の類。
どうして誰かの「病」に “腹を立てる” ことができるだろうか
『超シンプルなさとり方』
ずっと同じ思考をグルグルとしてしまうのは、
何かに執着してるからで、、、
執着してるものが何であれ、偏った『在りよう』
『在りよう』によって、同じものしか認知できないようになってる。(【#『在り方』(在りよう)】~「価値観」であり、「判断基準」であり、「認知のフィルター」であり、「マインド」であり…)
怖いかもだけど、一瞬でもいいからそれを外す
「今は要らない」と。
そうすると、『在りよう』が変わり、見えなかったものが見える。
長くは続かない。だからまた外す。また、、、。その繰り返し
望む『在りよう』がデフォルトになるまで。。。(【脳の可塑性】毎日の繰り返しで自分を変えることができる)
「人生なんか適当に送れ」、、、
そういう方向に偏ってる人にはそれが良い。
逆の方に偏ってる人には、反対のことを言った方が効果的。
自分にとっての『緊張・拮抗点』を探れ!(#緊張・拮抗)
「手法・方法」・「何をやるべきか」は、
“どっち向き” に「偏ってるか」、 “どのくらい” 「偏ってるか」によって違う
「真逆」の場合もある
「嘘も方便」。。「認知」に “捉われるな” !
「手放す」と「認知の偏り」が解消されるから、
さっきまでの自分では到底思いも付かなかったことが、降ってくる。
「あーそうか!(解決)」
『在り方』が変わったんだ。(【#『在り方』(在りよう)】~「価値観」であり、「判断基準」であり、「認知のフィルター」であり、「マインド」であり…)
「ことば」を発するとき、、どちらか側に居る。
そうでなきゃ、「ことば」は “出てこない” 。
「分別」してる。偏ってる。(【#分別】~「比較」・「判断」・「優劣」、、してしまう。。)
世間一般に迎合しなくなると良いのは、、、
「良い悪い」で「判断」しなくなること。
そういう、常に「変化し続ける」モノサシを基準にしないで、
「不変」である「理」で判断するので、ブレない。
「偏りのない認知」≒「まんべんなく意識する」
「思考」や「視覚」に偏りがちな意識を、
「感情」、視覚以外の「感覚」にも “まんべんなく” 向けてみる。
丁寧に、均等になるよう。。。
「モノ」や「お金」じゃないんだなぁ。
「健康(身体)」や「心(感情)」でもない。
「偏る」のがダメなんだ。
「問題」や「苦しみ」が無くならない。(【#新しい問題解決法】~「問題」を「問題としなくなる」。相対的に。)
「認知」なんてものは生きてれば “必ず” 「偏っている」
それを「神」と観るか、「宇宙人」と見るか、「お金」や「人生経験」、「健康」、「愛」、「もの」、「仕事」、「家族」…
「一回シャッフルしようぜ!」
「ハッスル」じゃないぞ、「シャッフル」だぞ。
誰だ?ハッスルしてるのは。
んで、机の上に裏返しで置いてみよう?
今日はその中から一枚を選んで取る。
それが “今日の” 「価値観」の一番上としてみよう。
見えるものが毎日違って、新鮮な気持ちでいれる。
明日は何を引くのかな?
ワクワク・ドキドキが止まらない
(【#『在り方』(在りよう)】~「価値観」であり、「判断基準」であり、「認知のフィルター」であり、「マインド」であり…)
「(外界の)現象」に「価値」が偏りすぎ。
周り(外)を観ると、「比較」してしまう。
▶【#分別】~「比較」・「判断」・「優劣」、、してしまう。。
「比較対象」をシャットする。(「瞑想」等で。)
これができれば、もう「絶望」などしない。
「認知」が自在。
「価値観」をもひっくり返すことができる。自在に。
「尖る」「偏ってる」から面白い!
「尖ってない」のに面白いのは、「尖らない方に究極に尖ってる」からだ。
ていうか、「認知」してしまう。。
人間は「差異」を感じる生き物。
それでしか「認知」できない。
▶認知は一律で(愛しき)クソである