【瞑想日記】更新中!

【#偏り】~「偏り」にいち早く気付き、解消する方へいく。

【#偏り】~「偏り」にいち早く気付き、解消する方へいく。

「猫が好き」これも偏り

猫と他のものを区別してる。優劣を付けてる。

でも、”してしまう” から、しょうがない。。。

 

「偏り」を解消する(今も昔も世界はずっとこれだけをやり続けている)

 

「偏ったら解消する」。ずっと前からそれを繰り返してるのがこの世界。

「回りて巡る」、、、?

同じことは二度と起きない

 

その瞬間しかない。刹那。(【#「時間」は存在しない】~『時間なんて無い』とした方が、辻褄が合うことが多いし、 なにより、自分にとって都合が良い。

輪廻なんて無い

 

どこかで誰かが必ず気付く。

「あーまぁた脳が暴走してらぁ」(#脳の機能

 

散々、環境を破壊して、「やっぱ環境破壊し過ぎたから、環境を大切にしようぜ!」

「偏りを解消する方」に動いてるだけ。

 

再び「環境を破壊する」日が来る。←予言ww

 

初めて聞いた曲も、「この歌は誰々の歌だ!」ってすぐ分かる。

特徴があるのだ。

つくった人のDNAだったり、生きてきた経験だったり、、、

ある意味「偏り」とも言える。

「偏り」≒「特徴」

 

「認知の偏り」から逃れられる人などいない。。。

 

意見なんて、状況や環境で一変する

統計調査や、一般論の不確かさ…サイレントマジョリティーもいる

唯一 “信頼できる情報” は「自分の実感」のみ(【#利己的】~「自分の問題」だけを解決してればいい。。

 

だが、その実感も偏った見方…

そうなるともう、「分からない」というのが本当のところではないのか?

「何が原因で失敗したのか」、「何が要因で上手くいったのか」なんて、分かりようがないのではないか?

 

結果に一喜一憂したフリはしても、決して飲み込まれない。プロレスを見てるんだ。(【#プロレス】~この世界をどう観るか?

すべてを「自分ごと」として捉えてしまうのも、偏った見方。今すぐ止める。

物事はそんなふうには決まらない。

 

 

「わたし」もこの世界の『理』に順ずると ”楽” 。

 

「偏りを解消する」方に行動する

運動不足なら、運動する

 

最初は効果高くて、だんだん減少していく…

“偏り過ぎ” のサインが「飽きた・慣れた」という “感じ”(#慣れ

 

そのサインを感じる「センサー」が “緩い”のか、”鈍感”なのか、、、

あるいは、”ぶっ壊れて” ないか?(#認知の密度

 

「意識が(外)ばっかり向いてた」ために、自分の “感性” をないがしろにした結果。(【#意識の向き】~(外)向きか(内)向きか、それが問題だ。

 

生きてるかぎり、必ず認知が偏ってる

偏りが、苦しみや問題の原因

どーする?

一瞬々々、『認知を外し続ける』(#認知を「外す」

メタ認知

だから”さとり”は一瞬だということ。(さとりは一瞬

 

極度の「不安」も、「興奮」も「期待」も、『偏り』

それは「病い」「機能不全」の類。

どうして誰かの「病」に “腹を立てる” ことができるだろうか

『超シンプルなさとり方』

 

ずっと同じ思考をグルグルとしてしまうのは、

何かに執着してるからで、、、

執着してるものが何であれ、偏った『在りよう』

 

『在りよう』によって、同じものしか認知できないようになってる。(【#『在り方』(在りよう)】~「価値観」であり、「判断基準」であり、「認知のフィルター」であり、「マインド」であり…

 

怖いかもだけど、一瞬でもいいからそれを外す

「今は要らない」と。

そうすると、『在りよう』が変わり、見えなかったものが見える。

 

長くは続かない。だからまた外す。また、、、。その繰り返し

望む『在りよう』がデフォルトになるまで。。。(【脳の可塑性】毎日の繰り返しで自分を変えることができる

 

「人生なんか適当に送れ」、、、

そういう方向に偏ってる人にはそれが良い。

逆の方に偏ってる人には、反対のことを言った方が効果的。

 

自分にとっての『緊張・拮抗点』を探れ!(#緊張・拮抗

 

「手法・方法」・「何をやるべきか」は、

“どっち向き” に「偏ってるか」、 “どのくらい” 「偏ってるか」によって違う

「真逆」の場合もある

 

「嘘も方便」。。「認知」に “捉われるな” !

 

「手放す」と「認知の偏り」が解消されるから、

さっきまでの自分では到底思いも付かなかったことが、降ってくる。

「あーそうか!(解決)」

 

『在り方』が変わったんだ。(【#『在り方』(在りよう)】~「価値観」であり、「判断基準」であり、「認知のフィルター」であり、「マインド」であり…

 

「ことば」を発するとき、、どちらか側に居る。

そうでなきゃ、「ことば」は “出てこない” 。

「分別」してる。偏ってる。(【#分別】~「比較」・「判断」・「優劣」、、してしまう。。

 

世間一般に迎合しなくなると良いのは、、、

「良い悪い」で「判断」しなくなること。

そういう、常に「変化し続ける」モノサシを基準にしないで、

「不変」である「理」で判断するので、ブレない。

 

「偏りのない認知」≒「まんべんなく意識する」

「思考」や「視覚」に偏りがちな意識を、

「感情」、視覚以外の「感覚」にも “まんべんなく” 向けてみる。

丁寧に、均等になるよう。。。

 

「モノ」や「お金」じゃないんだなぁ。

「健康(身体)」や「心(感情)」でもない。

「偏る」のがダメなんだ。

「問題」や「苦しみ」が無くならない。(【#新しい問題解決法】~「問題」を「問題としなくなる」。相対的に。

 

「認知」なんてものは生きてれば “必ず” 「偏っている」

それを「神」と観るか、「宇宙人」と見るか、「お金」や「人生経験」、「健康」、「愛」、「もの」、「仕事」、「家族」…

 

「一回シャッフルしようぜ!」

 

「ハッスル」じゃないぞ、「シャッフル」だぞ。

誰だ?ハッスルしてるのは。

 

んで、机の上に裏返しで置いてみよう?

今日はその中から一枚を選んで取る。

それが “今日の” 「価値観」の一番上としてみよう。

 

見えるものが毎日違って、新鮮な気持ちでいれる。

明日は何を引くのかな?

ワクワク・ドキドキが止まらない

【#『在り方』(在りよう)】~「価値観」であり、「判断基準」であり、「認知のフィルター」であり、「マインド」であり…

 

「(外界の)現象」に「価値」が偏りすぎ。

周り(外)を観ると、「比較」してしまう。

【#分別】~「比較」・「判断」・「優劣」、、してしまう。。

「比較対象」をシャットする。(「瞑想」等で。)

これができれば、もう「絶望」などしない。

 

「認知」が自在。

「価値観」をもひっくり返すことができる。自在に。

 

「尖る」「偏ってる」から面白い!

「尖ってない」のに面白いのは、「尖らない方に究極に尖ってる」からだ。

ていうか、「認知」してしまう。。

人間は「差異」を感じる生き物。

それでしか「認知」できない。

 

▶認知は一律で(愛しき)クソである

 

~ ごあいさつ ~ ハチ@夢中

瞑想やってます。日記書いてます。 ウソかホントか、よく分からない話を読んでくれてありがとう。自分が「認知した世界」を少しづつ書き溜めてます。 (♪素敵なものが欲しいけど あんまり売ってないから 好きな歌を歌う 『JAM』THE YELLOW MONKEY) 自分の頭の中を覗かれるようで恥ずかしいけど、公開します。(後悔しません!) 「ここが違うよ!」「それは分かる」「合ってるよ!」何でもご意見・ご感想頂けると嬉し いです。(難しいことは分かりませんw)