ある “徳を積んだ人” が「さとったら、感情を顕にしなくなった」と説いた。
一般ピーポーのなかには、「自分たちもそうしよう!」と言うものが現れた。
こうやって、『美徳』は後から理由付けられる。
目次
ヒマラヤの聖者で片手を上げたままの人が…
聖者:「瞑想してたら、声が聞こえた。『手を上げよ』。片手を上げたら、何かが私の手を握った実感があった。一瞬だったが「神」だと思った。それ以来私は片手を下げていない」
一般ぴーぼー:「(おれも片手を上げてたら「神」に会えるかも。。。)」
そしてそれは拡がった。
それと同じ。
日本人は、もっと感情を出したほうが…
「感情」を「出す・出さない」は問題ではない。
そうなったのは、してしまった、”単なる” 「結果」。
▶【#因果が逆】~『在り方』→「認知」→「選択」→「行動」の順。
形だけ真似しても、そこには決して至らない
学問や知識では…
形式、しきたり、儀式のようなものは、全部プロレスに見えてきた
なにか一つに執着することはない、捉われるな。
全部あってプロレス
「場外でパイプ椅子を投げつけられる観客」もいて、プロレス。
プロレスはこれからも続く。
こうやって「物語」が作られていく。「集団意識」とはこのこと。
脳が創り出した「物語」である、「ワケワカランモン」は、「価値観」にまで昇華する。
形だけ真似する人は冷たい感じがする
”徳を積んだ人” は冷たい感じはないと思う。
自然に “なってしまった” ものだから。。。