認知を「外す」ことができたら、どんなにいいか。。
頭から離したいのに、離れない、、
せめて「二の矢」だけでも、、
「認知」は “勝手に” 「外れる」ときがある、、
「必死な状況」になったら、脚が「痛い」のも忘れて走ってる
「認知」は “外れるときがある”
必死な最中って「恐怖」すらない。
痛いとか、「感覚」すらも幻…
「思考」してるうちは、そのレベルにない。思考なんてしてられない程、、
「意識」は “より強い方” に引っ張られる
意識的でいないと、現象に「反応」するばかり。
自分の中で “より強い” をいかにつくれるか。(【#利己的】~「自分の問題」だけを解決してればいい。。)
「夢中」にそのヒントがある
「瞑想」がその手段
こんなときも、、認知は「外れる」ことがある
◆ 格闘技でドーパミンが出て、「痛み」を ”感じない”
◆ 同じもの食べてるのに、「美味しい」ときと「美味しくない」と感じるときがある
(感覚は「相対的」なもので「絶対値」ではない)
「おいしいものを食べるより、おいしくたべよう」
◆ 本を読んでる(目では文字を追ってる)のに頭に入ってこない。
ちゃんと聞こえてるのに、内容が頭に入ってこない。
、、、
そして、認知は「外せる」。意思をもって。コツはいるけど、、
「心頭滅却すれば火もまた涼し」じゃないけど。。。
「認知」を外す「コツ」?のようで、ないようで。。
悪口は無視したらいい…それができないで、困ってる。。。
それは「自動の反応」だから。
これは訓練、「認知を外す」。(【#脳の可塑性】~ゆっくりと、知らないあいだに、、)
人にどう思われるか気にしない…ようにしても変わらない。。
“一時的” に「認知を外してる」だけ。
ふとした瞬間に元に戻ってしまう。
「許容」しよう。
人にどう思われても、気にしなくてもいいし、気にしてもいい。どっちでもいい…そこは問題じゃない、と。
人生は「体調」”そのもの” ではない。
「うぅぅ体調が悪いー。。」
昨日の夜食べ過ぎたのが悪かったのか、
寝不足もいけなかったのか、、、
一旦、「原因を探す」のはやめよう(二の矢)
「体調」を手放す。
認知から「ずらす・外す」
解決したい問題があったら、それを「手放す」。
そのことについて “考えない” どころか、完全に「認知から外す」。
『問題の(外)に出る』(【#新しい問題解決法】~「問題」を「問題としなくなる」。相対的に。)
どんなに「認知から外した」と思っても、どうせ『一度繋がった縁は切れない』。
ただ『相対的に問題が小さくなった』だけで、なにかの拍子に再び認知に現れる。
そのとき、「!」がくる。(【#認知の密度】~「気付ける!」って素晴らしい!!)
毎度毎度ではないけど、必ずしもそれが正解ではなくとも、、
以前の、行き詰まって、何も思い浮かばなかったときからしたら、格段の進展。
「絶望からの復活」。
“自分で” 「ずらす」のではない。
“自分から” 「外す」のではない。
“意識が勝手に拾ってくる認知” を、その移り変わる瞬間を捉えようと鋭敏に「待つ」。(「思考」の「起点」 #瞑想日記)
そしてそれを「観察する」。(#観る)
「外す」っていうのは、”無くす” ことじゃない
有るんだけど、全部ひっくるめて「包含」してしまう。
意識はより広い範囲に拡大する。(【#認知領域】= 今この瞬間の『わたし』。「許容する」「包含する」)
許容範囲が拡がる。容器・入れ物が大きくなる。
”相対的” に、中に入ってるものが小さくなる
問題は “依然有る” んだけど、”問題として扱うほどのことじゃなくなる”
無限に小さくなるから、認知してないのとほぼ同じ。
、、、かな。