「思考」には “始まり” があるはずだ。
その「起点」を “無限小の段階” で捉えようとする。
まだ「ことば」にもなってない段階。
まだ「感覚」「感情」にもなってない、小さな “もわっと” した「感じ」
今まで意識して踏み込んだことがない領域へ
そうしてると、認知が密になる。
思考が止まって、静かになっても、意識はまた “別の何か” を捉えてる。
頭が涼しいとか、痒いとか…「感覚」。
「感情」はどうか…
外の音は?暑い寒いは?
意識は留まることを知らない。
共通してチェックするのは、『心の平安はどうか?』
常にこの「安心・安全」があること。
逆に無ければ、方向が間違ってるサイン。正す。
「思考の起点」を捉えようとする、、、とは、
“自動の反応” である「思考」。
起きるのは、 “そうなってしまうもの” としか言いようがない、、
だけど、”そこ” と、「わたし」との繋がりは、繋がる前に阻止することができる。
それをやる。
思考の起点を捉えたら( “自分の出来る” 最早でいい)、気付いて止める・ずらす・受け流す・そこから離れる、、、
いつ・どこでも「思考の起点を捉えようとする」はできる
その都度、「 “無限小” の起点」に挑む。
当然、深く入れるときもあるし、まったく入れないときもある。
その状況・状態での『緊張・拮抗点』でOK。
うまく出来ないとき、
「外の音に自分は反応してしまってるんだなぁ。。」って気付けたらOK。
それが「自分の課題」だと気付けた!
いづれ、「瞑想」が “深い” か “浅い” かは、問題にしなくなれば最高。 “どっちでもいい” …と。
問題は「創る」のではなく、「消す」方へ。。
「もののふさん」を雇う。。
「もののふさん」とは、思考の番人のこと。。
【参考記事】▶ 【注)完全自己流】「今に在る」ために具体的に実践していること。