今、”意識を置いているところ” が、「わたし」になる?
ふと、そう思った。
放っとくと、勝手に拡がる意識。
てんで散らばる。
「エントロピー増大の法則」は意識にまで作用するかのよう。
その意識を、意識してひとつのところに集約するのが、
「思考」を止める方法のひとつ。
そう簡単には、一所には集まらない。
いくつかのところに分散されている。
▶【#意識の向き】~(外)向きか(内)向きか、それが問題だ。
みかん集中法
「みかん集中法」というものがある。
【関連記事】
勉強など、集中したい行為のためにする方法。
あたまの斜め後ろ45度上、
30cmほど離した辺りに、
浮いてるみかんを、ありありと想像する。
その状態で、本を読むなり、勉強するなり、
意識をいくらかみかんに留めておく。
という集中法。
これが、「わたし」とどう関係があるのか?
たとえば、みかんに50%、本に50%意識が向けられたとしたら、
わたしの認知する世界は、「みかん」と「本」だけだ。
これが「わたし」のすべてであり、
今、この瞬間の「わたし」そのものなのではないか。
読書に100%没頭してるときの「わたし」
読書に100%没頭できるときがある。
それは至高の状態、「無我夢中」だ。
「わたし」は無くなった?
いや、このとき「わたし」=「本」なのだ。
「本の世界観」と言った方が良いかな。
「わたし」は一つではない
「意識」は分散する。
「みかん」と「本」のように。
思考を止めようと、
何か一つの行為に意識を集めようとするが、
簡単には、100%とはいかない。
その行為に付随する「感覚」、
今と関係ない、過去の「感情」、
止めたいのに湧いてくる「思考」
それらが出たり入ったりするときに、
意識にあがる。
その配分が「わたし」を決める要因なのではないか。
▶【#認知領域】= 今この瞬間の『わたし』。「許容する」「包含する」
「わたし」は一つではないし、
常に移り変わるもの。
私は、蝉になっていた。
蝉のおどろきが、私のおどろきになった。
私は、蝉になっていた。
(『食えなんだら 食うな』関 大徹 著 本文より引用)
一日中、坐っている。
用便のとき以外、立つことを許されない、
粗末な食事も、作法どおりにいただくと、
ただちに坐禅三昧に入る。
という過酷な修行のなか、著者が得た境地。