【瞑想日記】更新中!

「わたし」とは、意識の置き所、その配分?

「わたし」とは、意識の置き所、その配分?

今、”意識を置いているところ” が、「わたし」になる?

ふと、そう思った。

 

放っとくと、勝手に拡がる意識。

てんで散らばる。

 

「エントロピー増大の法則」は意識にまで作用するかのよう。

 

その意識を、意識してひとつのところに集約するのが、

「思考」を止める方法のひとつ。

【#止まる】~「とまる」・「やめる」・「とめる」、、

 

そう簡単には、一所には集まらない。

いくつかのところに分散されている。

【#意識の向き】~(外)向きか(内)向きか、それが問題だ。

 

みかん集中法

「みかん集中法」というものがある。

 

勉強など、集中したい行為のためにする方法。

 

あたまの斜め後ろ45度上、

30cmほど離した辺りに、

浮いてるみかんを、ありありと想像する。

 

その状態で、本を読むなり、勉強するなり、

意識をいくらかみかんに留めておく。

 

という集中法。

 

 

これが、「わたし」とどう関係があるのか?

 

たとえば、みかんに50%、本に50%意識が向けられたとしたら、

わたしの認知する世界は、「みかん」と「本」だけだ。

 

これが「わたし」のすべてであり、

今、この瞬間の「わたし」そのものなのではないか。

【#わたし・自我】~これを解決しないで、いつやるのか?

 

読書に100%没頭してるときの「わたし」

読書に100%没頭できるときがある。

それは至高の状態、「無我夢中」だ。

 

「わたし」は無くなった?

いや、このとき「わたし」=「本」なのだ。

 

「本の世界観」と言った方が良いかな。

【#読書】~「抜け・漏れ」が出ないよう、ゆっくり読む

 

「わたし」は一つではない

「意識」は分散する。

「みかん」と「本」のように。

 

思考を止めようと、

何か一つの行為に意識を集めようとするが、

簡単には、100%とはいかない。

 

その行為に付随する「感覚」、

今と関係ない、過去の「感情」、

止めたいのに湧いてくる「思考」

 

それらが出たり入ったりするときに、

意識にあがる。

 

その配分が「わたし」を決める要因なのではないか。

【#認知領域】= 今この瞬間の『わたし』。「許容する」「包含する」

 

「わたし」は一つではないし、

常に移り変わるもの。

 

私は、蝉になっていた。

蝉のおどろきが、私のおどろきになった。

私は、蝉になっていた。

(『食えなんだら 食うな』関 大徹 著 本文より引用)

一日中、坐っている。

用便のとき以外、立つことを許されない、

粗末な食事も、作法どおりにいただくと、

ただちに坐禅三昧に入る。

 

という過酷な修行のなか、著者が得た境地。

【読書感想】「食えなんだら 食うな」~題名がすべて。。

 

~ ごあいさつ ~ ハチ@夢中

瞑想やってます。日記書いてます。 ウソかホントか、よく分からない話を読んでくれてありがとう。自分が「認知した世界」を少しづつ書き溜めてます。 (♪素敵なものが欲しいけど あんまり売ってないから 好きな歌を歌う 『JAM』THE YELLOW MONKEY) 自分の頭の中を覗かれるようで恥ずかしいけど、公開します。(後悔しません!) 「ここが違うよ!」「それは分かる」「合ってるよ!」何でもご意見・ご感想頂けると嬉し いです。(難しいことは分かりませんw)