「何も(持って)ない」「何も出来ない」、、、いいねぇ、方向を間違えることがない。
「モノ」は『わたし』ではない。
「何かする(した)」のが『わたし』ではない。
、、、は『わたし』ではない。
それらとは “一切関係なく” 『在る』のが『わたし』なんだ。
『わたし』を放っとくことなどできない。。
「ほんとうのわたし」を知れば知るほど「放っとけなく」なる
『縁』、結びつきが強くなる。
どこから掘ろうと、結局行き着くのは「わたし」
「パン🍞」って何だろう?
、、、ずーっと掘り下げていくと、、、結局、
「なんで「わたし」は「パン🍞」を焼くのだろう?」に行き着く。
何をしても、しなくても付いて回るのが「わたし」
「宇宙」…を見ているのは、、、「わたし」ほらね。
なんなん?「わたし」。
これを解決しないでいつやるのか?
扱うべき問題を、一つ一つ精査していく、削ぎ落していくと、、
最後には『わたし』にまとわりつくごく近い『縁』のみだと気付く。
『わたし』そのものを解決してから、(外)へ向かう。(【#意識の向き】~(外)向きか(内)向きか、それが問題だ。)
何をそんなに “後生大事に” 「護ろう」としてるのか?
自我。
そんなに大した人生か?
そんなに大した命か?
「自分の認知」が「クソ💩」だと分かれば、
「他人の認知」も「クソ💩」なんだと分かる。
どっちも人間。
もう振り回されない。
認知は人それぞれ、自分にとって都合のいいように、後から解釈した、へ理屈。
「わたし」なんか “無い” ということが ”ほんとうの意味で分かれば” 、すべて解決する。
「わたし」とは、生命の維持機能がもたらす明滅である、という感覚を養い続けることです。
『無(最高の状態)』
「わたし」なんか “無い” ということが ”ほんとうの意味で分かれば” 、すべて解決する。
参考)
『道元』...「自己をならえ」
『超シンプルなさとり方』...「ほんとうのわたし」
『東洋哲学 飲茶』...「自我の破壊」
それは『わたし』ではない。
自分の「メンタル」でさえ、自分だけで決まるものではない
っていうのを分かってないといけない。
「メンタル不調」であまりにも悩み過ぎる必要はない。
「メンタル」だけが「わたし」ではない。
メンタルに “飲み込まれ過ぎ” 。
「うつ病」は「エゴの強化」が原因だが、、、
だから、うつを無くすには、エゴを捨てればいい。
エゴが思考の邪魔をしてる。
でもエゴはなかなか捨てられない。
怖いんだ。なぜか。
「わたし」=「エゴ」だと思っているから。
そりゃ怖いわ。「わたし」が無くなるのは。
マジでここ外せると軽くなる。(【#認知を「外す」】~頭から離したいのに、離れない、、)
ほんらいの「思考の機能」も戻ってくる。
「使う言葉」も、「立ち居振る舞い」も、そのときの『わたし』によって変わる
いろんな『わたし』がいる。
「上司」に対するとき、「部下」…、「お客」、「家族」に対するとき、「子供」…
全部違う「わたし」。
それぞれ「認知」するものが変わる。
そんなこと考えもしなかったけど…実はそうなんだ。
「認知」なんて「わたし」によってコロコロ変わってる。。
まったく “一貫性がない” …
何もできない『わたし』、、、?
今に始まったことではない。ずっと前から何もしていなかったよ。。
「わたし」は常に、「観てる」こと “しかできない” 。(#観る)
人生が「平凡」であるか「激動」であるか、、どっちでもいい
そこは問題ではない。
何があっても変わらない無限小の「わたし」が在るだけ。
その外側で起こってることは、「わたくしごと」ではない。
怒られても、それは「わたし」ではない。。
無限小の点である「わたし」で在れば、「それがどーしたw」
『わたし』が出来るのは、「気付く(!)」「観る」「止める」のみ
あとは、「頭(認知・思考)」「身体(言動)」「感情」などの野獣は解き放ってあげる
「観る」のは、
それら野獣の動きの過程と結果。
◆「安心・安全」で在るか。
◆「認知が密」で在るか。
そうで無いなら「止める」
野獣は “裏” で動いてる。「わたし」が “表” 。
「現象」→「反応」≠「それを観てる『わたし』」…
「現象」→「反応」はセット。
でも、『わたし』とは “無関係” 。
『在り方』はモード?
自分の中にはいろんな「モード」がある。(【#『在り方』(在りよう)】~「価値観」であり、「判断基準」であり、「認知のフィルター」であり、「マインド」であり…)
それらを「わたし」と一纏めに指し示すことがいかに変か…
『わたし』とは、何なのか?
「わたし」は “削ぎ落として” いって「現れるもの」
ペタペタ継ぎ足していくものではない
“剥がれ落ちないよう” に常に注意しなきゃいけないと、意識(エネルギー)を取られる。
本当の私は奥の奥…
♪ここから一歩も通さない 理屈も法律も通さない 誰の声も届かない 友達も恋人も入れない
『月の爆撃機』THE BLUE HEARTS
「メモ」を見返すと、『昔の自分』に気付かされることがある
「なぁんだ、気付いてたじゃないか!」と。
【#瞑想日記】2023年02月~で、こんなこと書いてた。
「ここ数日、ずっと何も思い付かないし、欲求も無かった…」
~ 抜けれたのは、自分のメモ、ブログ。
自分って良いこと言ってるなぁ。。
そりゃそうで、すべて自分に向けて言ってるメモ、ブログだから。
「こういう人になりたい」…じゃなくて、
削ぎ落としていった結果。
“すでに在った” んだ。(#因果が逆)
仏像彫る人が言ってたのが…
「形は既に在る。それを掘り出す作業なんだ。」
「あーはなりたくない」も同じ。
「外」を見てることに変わりはない。(【#意識の向き】~(外)向きか(内)向きか、それが問題だ。)
『わたし』をつくる?!
寝ることで毎日リセットするスペイン人
「昨日の私」と「今日の私」は違う
寝るときに全部捨てる
本来はこうなんだろう。睡眠で毎日人はやってたんだ。。
いつからか、「考える」を強いる社会へ…脳が暴走して、その機能を果たせなくなってしまった…(#競争世界)
「外界の現象」と関係無い「わたし」を “つくる”
「外界」と「わたし」を分離したい。。
“自在” に「分離」したり、「渦中に入ったり」出来るようにしたい。
「渦中に入ってるとき」は、人生という「プロレス」に夢中になって参加してるときであり、
楽しんだり、悲しんだり、共感したり…
感情のジェットコースター。
一通り味わったら、戻ろうね。
「あー、プロレスなんだなぁ」って。(【#プロレス】~この世界をどう観るか?)
「感謝」してる時って、「自我」が和らぐ
「祈る」もそう。
『ほんとうのわたし』と「自我」との間の『拮抗点』が、「活きてる!」っていう感じ。。
笑いも、悲しみも、恐怖も、喜びも、、否定も肯定も、、ぜんぶ引っ括めて『拮抗点』に居る
何が起ころうと、起こるまいと…
▶【#緊張・拮抗】~夢中、ゾーン、フロー、さとり、、の「鍵」
言わないより、言ったほうが良い?
言うと、世界を狭める。
どんどん限定される。ことばは “切り取り” だから。
でも、一方で、「尖る」。
だから目立つ。認識される。
つまり、「存在」する。
存在したいなら喋れ。嫌なら黙れ。
でも、その欲求もときによって変わる。
揺れ動いてるし、偏り過ぎることがあるから。(#ゆらぎ)(【#偏り】~「偏り」にいち早く気付き、解消する方へいく。)
だから「自在で在れ」。
「わたし」が誰であるかは、「プロレス」の中では、”あった方がいい” 。。
それを知ってどうなるのか?
→「そんな経歴・体験が。。凄い!」
あるいは、
→「なぁんだ、ただのひとり言かぁ」
今までの「言動」が、「より美化される」のか、あるいは、「ゴミになる」のか。
変わってしまうw
自我から外れると、”瞬時” に文章も上手くなる
「認知が密」になり、読者のニーズが手に取るように分かってしまうから。(【#認知の密度】~「気付ける!」って素晴らしい!!)
文章だけでなく、会話なども。
どんな “振る舞い” をしたら「対等な関係」が作れるか、分かってしまうから。
この文章が “つまらない” と感じたなら、つまり、そういうこと。。。
、、、でもね、本音を言うと、、、
面白いコンテンツなどない
“面白いと感じる” 「感性」があるだけだ。