悟ってる状態は、( ゚д゚)ハッ! 「!」「!」「!」…「気付き」の連続。
「!」の瞬間々々、別の『わたし』。(【#わたし・自我】~これを解決しないで、いつやるのか?)
だから人によって様々な「 “もっともらしい” 解釈」が生まれる。
「認知の密度」が最大のとき、つまり “坐ってるとき” (瞑想)だけ、それが可能。(【#認知の密度】~「気付ける!」って素晴らしい!!)(#一人)
だからさとった(とされる人でも)後も坐り続ける。
「様々なもっともらしい解釈」を隅々まで紐解いても、いっこうに辿り着けないはず。。
“解釈そのもの” には「ヒント」が “無い” のだから。
「さとり」が一瞬だと分かれば、もう捉われない。
( ゚д゚)ハッ!「!」のとき、「分かった!」「そういうことか!」「ヨシ!(何でも)ばっちこい!」「突き抜けた感」。。
それは一瞬で、次の瞬間、「?分かんなくなった。。」や「やっぱ違うかも。。」が訪れる。
言ってみれば、「さとり」は一瞬の「思い込み」のようなもの。。
一瞬”さとれ”たらもうOK
時間は流れてない。映画のように細切れ。これ以上小さくできない、時間の最小単位も分かってる。
それにどれだけ近づけるか。
「ターン・ターン・ターン…」だったのを
「タ・タ・タ・タ・タ・タ…」に。
時間の(を感じる)密度を細かくする
”さとる”回数を多くする
(【#「時間」は存在しない】~『時間なんて無い』とした方が、辻褄が合うことが多いし、 なにより、自分にとって都合が良い。)
「何かを得た」と感じるのも一瞬
「感動」も一瞬
次の日にはケロッと忘れている
あの感じを思い出せない…
月日が経ち、忘れた頃に再び降ってくる、その感じ。
落ち込んでても、 “一瞬で” 「復活」することがある。
何か本だったり、好きな人のことばだったり、歌の歌詞だったり、TVのCMの文句だったり…
一瞬で復活することがある。
それを「外の要因」ではなく、「自分で」できる。
ふとそういう思考が、ことばが浮かぶ。思い出す
気付く。いつでも、偏ってたって。(【#偏り】~「偏り」にいち早く気付き、解消する方へいく。)
見張ってないとすぐ崩れる
さとりは一瞬。
そういやブッダも一生瞑想してるし。
「手に入れる」ことなんて無い
手に入れたと思えるのは一瞬。
次の瞬間にはそうは思えない。
さとりを最終局地だと思っていると…
“まだ悟ってない” ということになって、ずっと「不足」のまま。。
さとりは一瞬。気付いたときがさとり。
さとりとは、そのうちに拓けるものではありません…
『超シンプルなさとり方』
いつかさとりたい…と思ってるうちは永遠にさとれない。。
「 “高尚” なもの」だという認知が…トラップだ。
「この世界」は、「ほんとうに大切なもの」を “隠している” 。それに「気付けるか・どうか」のゲーム。
あるロック・ミュージシャンのことば
「さとり」というのがおこがましいと感じるなら、
「さとちゃん」でもいいし、「状態X」でもいい。なんだっていいんだってんだ。。