なんで?って言われても…
「反応 “してしまった” 」
その導火線に火を付け “られた” としか…
- 1. 『在り方』→「認知」→「選択」→「行動」の順。
- 1.1. 「言葉」を変える “だけ” ではダメなんだ。
- 1.2. ことばで「ありがとう」は、溢れ出て “しまった” もの
- 1.3. 「振る舞い(言動)」を変えることで何かを良くできるのではなくて、
- 1.4. 何か、「対処法」があるんじゃない。
- 1.5. 「感謝」は “するもの” じゃない、”してしまうもの” だ
- 1.6. 「呼吸」をゆっくり・深くするから「リラックス」するのではなく、
- 1.7. 「開放感」「リラックス」を “味わう” のは後。
- 1.8. 何にでも興味を持て、好きになれ、はおかしい
- 1.9. 「世の中良くしたい。。。」は、嘘だ!
- 1.10. 「欲求」があるから動く
- 1.11. 「幸せ」だから、そういう「発想」・「認知」になる。
- 2. 「認知」→「現象」
- 3. 『在り方』→「認知」
『在り方』→「認知」→「選択」→「行動」の順。
「言葉」を変える “だけ” ではダメなんだ。
「言葉」は心の底から「変わって “しまうもの” 」。
『在り方』一つで「変わってしまうもの」。
ことばで「ありがとう」は、溢れ出て “しまった” もの
「ありがとう」と言おう。「感謝しよう」…?
ほんとうに感動したら、『在り方』がそうなら、「感謝」は 「”してしまう” もの」だ。(【#『在り方』(在りよう)】~「価値観」であり、「判断基準」であり、「認知のフィルター」であり、「マインド」であり…)
ことばの「ありがとう」なんて、最後の最後で溢れ出てしまった「残りカス」のようなもの。
分かっちゃう人には分かっちゃう。
格闘家が、「格闘技の素晴らしさを伝えたい」なんて…
「振る舞い(言動)」を変えることで何かを良くできるのではなくて、
『在り方』を変えることで、適切に “振る舞える” ようになる。
「振る舞い」は、『在り方』の結果。自動の反応。
「振る舞い」の “癖” をつけても、状況々々によって、「適切な振る舞い」は違うから…
だから「今ここ」にいて、状況を正確に認知しなければ、「適切な振る舞い」が何かは分からない。(【#今に在る】)
通り一辺倒の「 “一つの” 振る舞い」では渡っては行けない。
何か、「対処法」があるんじゃない。
「方法」なんて、最適解は “変化していく” もの
たとえば、「心理学の実験」。
「人間とは、こう反応するものだ、、、」
これが世に十分広まったら、もう “同じ実験結果” にはならないだろう。。
なぜなら俺みたいな “天邪鬼” がいるからだ。(「科学的」って何なん?なんで100%じゃないんだ?!)
変えるのは「やり方」ではない。『在り方』だ。
「どこ」で気付いて(!)、変えるか。。「可能性」の拡がりはぜんぜん違ってくる。
「感謝」は “するもの” じゃない、”してしまうもの” だ
誰かに「感謝しましょう」なんて言われてすることじゃない
もっと “自発的” なものだ。(【#ほんとうの欲求】~どう『在りたい』か。。。)
「呼吸」をゆっくり・深くするから「リラックス」するのではなく、
「リラックス」したから、「呼吸」がゆっくり・深くなるんだ。
「開放感」「リラックス」を “味わう” のは後。
「認知が密」に成れば、 “その感じ” は勝手に入ってくる(【#認知の密度】~「気付ける!」って素晴らしい!!)
何にでも興味を持て、好きになれ、はおかしい
興味は持ってしまうもの。好きになってしまうもの。
そこに意志はない。(【#理由は後付け】~自由意志なんて無い!?)
“偽の” 「興味・好き」でやってたら…そりゃ苦しくなるわ。
「世の中良くしたい。。。」は、嘘だ!
それは、「自分が思うようにしたい」だ。(【#利己的】~「自分の問題」だけを解決してればいい。。)
世界はいつでも正しく回ってる。
良い・悪いとは無関係に。
「欲求」があるから動く
動くから適応する・体力がつく
「欲求」が起源。
「幸せ」だから、そういう「発想」・「認知」になる。
「安心・安全」で在るから、そういう「発想」・「認知」になる。
逆なんだ。
まず『在り方』。
「幸せ」なんかよりも、ずーっとずっと手前にあるのが『在り方』。
「幸せ」かどうかは、問題ではない。(【#新しい問題解決法】~「問題」を「問題としなくなる」。相対的に。)
「認知」→「現象」
「戦争反対」を訴え続けても、戦争がなくならないのは…
「戦争反対」を認知した瞬間、「戦争」が生まれるから。
「争い」を本当になくすには、
世界から「争い」とか、「戦争」という言葉を消してしまうしかない。
「セ・ン・ソ・ウ…?」
でも、また誰かが「これは戦争だ!」と発見(認知)してしまう。
それまでの間だけ「戦争」が無くなる、そういうもの。(【#「さとり」は一瞬】~「!」「!」「!」、、、「気付き」の連続。)
『在り方』→「認知」
「選択」が問題じゃない。
『在り方』が問題だったんだ!
「認知」→「選択」→「行動」の順。
「選択」よりも、何を「認知」するか、が先。
「認知」は『在り方』によって、 “してしまう” 「自動の反応」。
「不足はない」という状態で “在る” から、「もともと有ったのに、見えなかったもの」が見えるんだ
因果が逆なんだ。
「もともと有ったのに、見えなかったもの」とは、「認知の盲点」【#認知の盲点】~消すことはできない。必ず付いて回る(恐怖)