「今は要らない」「今は要らない」…と全部捨てたとき、『不足』は無くなり、
「ほんとうに自分がすべきこと」が湧いてくる。(【#ほんとうの欲求】~どう『在りたい』か。。。)
好きな事して、眼を痛くしてもPC見続けてしまう…ほどに。。
「不足」が限りなく “無い” に近いのが、「さとり」の状態。
釘を踏んでしまうのも、「釘」が「認知の盲点」に在ったから。
完全に「今ここ」に在ったら、、(【#今に在る】)
“アリエナイ” かもしれないけど、限りなくそこに近い人が「さとった人」
「認知の盲点」が無い人。(【#認知の盲点】~消すことはできない。必ず付いて回る(恐怖))
幸せなんて薄っぺらなもの…
幸せなんて薄っぺらなもの…
『超シンプルなさとり方』
逆に言えば、”幸せ程度”なら、いつ何があっても、なれるということ。
脳のキャパ的に、すべてを認知するのは不可能だけど…
限りなくそこに近づくには、
抽象度を目一杯上げて、情報量を少なくするしかない。。
それが「!」分かった!状態。
「!」分かった!と思っても、次の瞬間、再び分からなくなるのは…
「盲点」が在ることを発見したから。
そもそも扱う問題が “狭い範囲” で、そこで「!」分かった!と思ってただけで、、
「山の魅力」に取り憑かれた人は、こんなエキサイティングな気持ちにさせてくれるのは、「山以外無い!」と思い込んでしまうように…
実は世界はもっと広かった、外に広がっていたことを知る。(【#認知領域】= 今この瞬間の『わたし』。「許容する」「包含する」)
それでいい。
そうやって、広げてった先にあるのが、さとり。
さとりとは、「!」
これを「エクスクラメーションマーク」とか「ビックリマーク」などと呼んではいけない。
「!」は、「!」なのだ。
(【#「さとり」は一瞬】~「!」「!」「!」、、、「気付き」の連続。)
もしも、全員が悟ったら…この世界は消えて無くなってしまうだろう…
悟ったら、とは、いわゆる一般的なイメージの悟り。
「安心・安寧」の中にずっと居る。ずっと一人で瞑想中。
波風が立たない。力が存在しない。無。”0”(ゼロ)。
均衡状態。釣り合っている…ではない。「緊張・拮抗」状態とは違う。
▶【#緊張・拮抗】~夢中、ゾーン、フロー、さとり、、の「鍵」
「さとり」も、『在り方』の一つでしかない。。
病気を、「今は必要だったんだ」と思うのも、
脳の(偏った)解釈。
「ある部位」と「ミー・センター(DMN)」との結びつきが “弱まった” 結果、脳がそういう “自分に都合のいい解釈” に至った。(【#脳の機能】~「思考」は「わたし」ではない。。)
人によって、いろんな解釈がある
「大いなる存在」も、「神⛩」も「仏」も「👽👾宇宙人」も…
格闘家が「格闘技の素晴らしさを広めたい」というのも…
解釈はあくまで解釈。それは「わたし」ではない。
解釈は楽しむもの
みんな違うから、『分別』するから、「時間の矢」が生まれたり、「苦しみ」が生まれたり、「物語」が生まれる(【#「時間」は存在しない】~『時間なんて無い』とした方が、辻褄が合うことが多いし、 なにより、自分にとって都合が良い。)
良いも悪いもない。人それぞれ。(【#分別】~「比較」・「判断」・「優劣」、、してしまう。。)
すべての解釈を手放せたら、『究極のさとり』
「認知」はすべて「偏り」。
「認知」は所詮、「💩うんち」、違いなどない。
化粧をするようなもの
こういうふうにしたら、人はこう反応するのか…フムフムなるほど~
振る舞い、所作、、、演技
「さとり」≠「幸せ」
なんの関係もない
「さとり」の中に「幸せ」が含まれているときもあれば、含まれないときもある。
そんなのは「さとり」からしたら、”どっちでもいい” …