「飽きた・慣れた」は、意識のゆらぎの中で、偏りすぎたサイン
いち早く「慣れ・飽き」のサインに気付く
偏り過ぎないために。(【#偏り】~「偏り」にいち早く気付き、解消する方へいく。)
健康も、
食べ過ぎない、、、
どんなに美味しい料理でも、毎日は飽きる
「続ける」というのは、 “自然じゃない”
微妙にでも「ずらし続ける」
『意識』はいろんなことに向いてしまう。。(【#意識の向き】~(外)向きか(内)向きか、それが問題だ。)
脳の同じ部位ばかり使ってると「飽きる」
「何もしない」のも飽きるし、「何かして」ても飽きるし。。
「飽きる」は人間に備わったデフォルト。
「飽きる」「慣れる」→「余裕が出る」
それでやっと次に行くんだ。(【#利己的】~「自分の問題」だけを解決してればいい。。)
昨日上手くいったことが、今日は上手くいかない
気持ちの問題?
たぶん「慣れ」のせい。
認知が「雑」になってる、「盲点」ができた。
(【#認知の盲点】~消すことはできない。必ず付いて回る(恐怖))
「呼吸」に集中するのが難しいのは、
呼吸が当たり前過ぎて、飽きる・慣れるから。
呼吸にも『緊張・拮抗点』が在ることを分かれば…(【#緊張・拮抗】~夢中、ゾーン、フロー、さとり、、の「鍵」)
祈るなら、一心不乱以外、意味はねぇ…
生半可に祈っても、『在り方』が変わらないから。(【#『在り方』(在りよう)】~「価値観」であり、「判断基準」であり、「認知のフィルター」であり、「マインド」であり…)
自分が変わることで、自分以外にも影響が及ぶんだ。
それしかねぇ。。
毎日やってます!、毎週やってます!
ダメなんだ。「慣れ」が有るから。
慣れたら “感じ” が薄れるから。
『在り方』に及ぼす影響が少ないんだ。
だから、劇的で、ショッキングな現象を体験・見せようとするんだ、、、
ちょっと間違うと、危険なことだ。
「慣れ」があるから、特定の「外的要因」による「さとり」は期待できない。
これをしたら、すべてOKなんてのはあり得ない。
科学ですら。。(「科学的」って何なん?なんで100%じゃないんだ?!)
サプリメントも、最初は効果あるけど、だんだんと薄れていく
逆に、「慣れ」を認知しなくできたらどうだろう?(【#認知を「外す」】~頭から離したいのに、離れない、、)
いつも新鮮な気持ちでいられたら…
その外的要因の効果も…あながち。
「意識が揺らぐ」=「飽きる・慣れる」
自然なこと。
それに理由はない。「なぜ」かは、考えない。
自然に “反する” と、「反発・抵抗・ストレス」が発生する。
意識の泳ぐままに。。(【#ゆらぎ】~さまよう意識)