“他人の不幸” は「面白い」と感じるのに、
“自分の不幸” は「辛い」と感じてしまう、、同じ現象でも。
「他人ごと」なのか、「自分ごと」なのか。。
【重要】観察の副作用
「私は周囲から独立した存在である」といった思考や感情に意識が向かうせいで、自己の輪郭が際立ち、逆に自意識が膨れ上がってしまうからです。
『無=最高の状態』
「自己」の “膨れ上がった” 状態=『魔境』
「瞑想」してる自分は、皆とは違う。。(【#分別】~「比較」・「判断」・「優劣」、、してしまう。。)
「行動」・「結果」は、「観察対象」
今の『在り方』がどうなのか?、、「結果」から知る。
「結果」も観察対象。
「他人ごと」だから、〇人事件を見てられる。
「小説」や「映画」、「ニュース」など。。
どこまで「他人ごと」にできるか。
「わたし」が、 “無限小の点” で在れるか。
“無意識に” 大量生産しない
自分は止まってなきゃならない。(【#止まる】~「とまる」・「やめる」・「とめる」、、)
「自分が今何をやってるか」、つぶさに観察してなきゃならない。
感度が繊細で敏感で、すぐに反応してしまう…
「わたし」と「感情」・「外界」・「思考」が一体になってる
そのものに巻き込まれている(【#新しい問題解決法】~「問題」を「問題としなくなる」。相対的に。)
「わたし」はその外(内?)で観ているものだ。
“夢中になって” 『観察』してたら、もう巻き込まれない
嫌な記憶を思い出してみる
それをただ『観る』。
映画のワンシーンのように。
その時の「感情」が湧き上がってくる
それもただ『観る』
「感覚」が体に起こる
それも『観る』
観る・観る…ミルミル?
「音」によって「 “無駄” を知る」ことができる。
将棋の駒☖☗でも、コインでも、音を立てずに…
「パチンッ」ハイだめ〜
ひとり言を言ってる。貧乏ゆすり。無駄な所作、、、
音(聴覚)だけでなく、すべての「感覚」は『観察対象』。
「車のナンバーにこだわってる奴」は、「偏ってる」とすぐわかる。
「言動」に表される
他には、、
「眉間にしわ寄せてカツカツ歩いて」たら、
こいつ張ってんなぁ…
「入れ墨を入れる」のは、
「不足」があるからだ。
自分では気付けない。。(【#認知の密度】~「気付ける!」って素晴らしい!!)
「言動」は『観察』対象にする。
結果なんか知らね。。
「観る」のメリット
「設計図(全体像)」を持ってる
「世界を観れてる」状態。
「観察対象」だから、”コントロール下” に在る
「所作」に無駄を無くせる。
無駄に「問題」を増やさない
「集中」するのと、ただ「観てる」のは、費やす「エネルギー量」が全然違う
「集中」は続かない。疲れる。
「観てる」はおまかせ。意識を向けてるだけ。動かない起点を中心に方向を変えるだけ。(【#意識の向き】~(外)向きか(内)向きか、それが問題だ。)
「観る」のデメリット
俯瞰して観れると、気を付けたいのは、「偉そうな態度」になること。
【#瞑想日記】2023年03月~ より、
俯瞰して観れると、気を付けたいのは、「偉そうな態度」になること。
どうしても “上から観てる” という感覚がぬぐえない。。
態度に気付いて、振舞いたい。
「正論」ばかり言う奴は “ムカつく” のだ。