やらなきゃいけないこと、すべきこと、を減らしていくと、
エネルギーが出てくる。やる気が出てくる。
アレもやらなきゃ。コレもやらなきゃ…は、他人の中にあるもので、
自分の中にはソレは無い。
「はいはい。そーですね。」と、 “振る舞う” 。
どうせ今出来ることしかできない。(【#「今できること」しか出来ない】~一度つながった『縁』は切れない。)
なぜ、人生が「楽しくなきゃいけない」のか?
どこから、そんな “理屈” が生まれたのか?
人生が楽しかろうが、楽しくなかろうが、どっちだっていい。
そこが問題ではない。
そんなふうに在ったら、 “勝手に楽しくなってしまう” もの。
手放せばいい。(【#新しい問題解決法】~「問題」を「問題としなくなる」。相対的に。)
多分、これが人間のデフォルト。
“解決すべき” 「問題」が、、、
無い。
↑この『在り方』。(#『在り方』(在りよう))
「自分がやってること」は “高尚なこと” だと思いたい
捨てろ捨てろそんなもん
不自由になる
信念とか、「○○(す)べき」を捨てた方がいい
「べき」を持つと、「それ以外」の “他人を許せなくなる” 。
「道徳的」に “そうした方がいい” という話ではない。
「自分の感情」が “良くない方へいかないように” 、ごく「利己的」な理由で。(【#利己的】~「自分の問題」だけを解決してればいい。。)
「穏やかな心でいよう」と執着すると辛くなる…
「そうでないとダメ」ってなってるから。
目標はずらす。(#認知を「外す」)
「穏やかな…」であるには、「今ここ」。(【#今に在る】)
「今ここ」であるには、「夢中でいる」。
「夢中でいる」ためには、「思考の起点を捉えようとする」(「思考」の「起点」 #瞑想日記)
「認知が密」になると、理解が多くなるので、「○○はこうだ!」なんて言えなくなる。
ましてや、他人に対して、無責任に、「○○すべき」なんて、、、
「分からない」というのが本当のことなのに。
「認知」できてない部分が大半なのに。。。(【#認知の盲点】~消すことはできない。必ず付いて回る(恐怖))
「自分の問題」だけに注力せざるを得なくなる(【#意識の向き】~(外)向きか(内)向きか、それが問題だ。)