【瞑想日記】更新中!

【#認知領域】= 今この瞬間の『わたし』。「許容する」「包含する」

【#認知領域】= 今この瞬間の『わたし』。「許容する」「包含する」

誰しも自分の中に、その瞬間、『認知してる範囲』が在って、、、

狭かったり、広かったり、、、

 

常に “アメーバ” のように「動いている」。狭まったり、拡がったり。

 

狭くても、その中で「尖れ」ば、『安心・安全』でいれる。(#安心・安全が土台

広くても同じ。「尖る」かどうか。(#偏り

 

どれだけ世界が「広いか」で、 “生きやすさ” が違う。

広さは「許容」。どれだけ許容できるか。

 

それは「認知」に現れる。

その『認知領域』の範囲が、= 今この瞬間の『わたし』

 

目次

「認知領域」とは?

認知している領域…「在る」のが分かっている

 

“そういう現象” が、ただ「在る」ことを。

“詳細” な「しくみ」や「要因」、「理屈」までは “理解できなく” とも

 

なぜ「心」ではなく「意識」でもなく、「認知」の広さ(認知領域)なのか?

心なんていう、在るのか無いのか分からない、人によって、状況によって、その実態が変化してしまうものではなく、

もう少しクリアにその要因が掴める「認知」の方が、自分には体験的に “しっくり” きた。

 

別に表し方は、何だっていい。。「ことば」だから。

 

それと、明らかに「コーヒー」飲んだ後は、そういう『在り方』になりやすい。

脳の血流量が上がったから。。脳の機能的なことなのでは。。認知だ!

 

「気象病」のときは、頭が働かない。何をやってもダメ。

やり過ごすしかできない。。

「低血糖症」でも同じ。

 

「認知領域」の “認知” は、「(頭で)知っている」ではない。

「分かっている」「許容している」「包含している」

 

どんなに「知識」を入れても、”そこ” には辿り着けない。

すべての「細かいこと」を “知っている” のではない。

 

「抽象度」を上げて理解する(が近い?)しかない、、、

 

「考える」よりも「思い付く」

「積み上げ型」は遅いし、「ヌケモレ」がある

まるっと一気に「括る・閉じる」と「ヌケモレ」が無い

【#読書】~「抜け・漏れ」が出ないよう、ゆっくり読む

「括った!」という “感覚”

 

「自転車」に乗るのも、自分で最初から最後まで、あーかなこーかな、

ヌケモレなくやったはず。

人それぞれ違ったヌケモレ。

自分のヌケモレを埋めてった。。

 

「認知領域」を「お尻の穴(*)」で例えると、、

普段は(*)は、認知に上がってない。

意識すると、その存在が確認できる。

 

でも、色や形などの状態は分からない。

分かるのは、 “確かに在る” という、その「感じ」。

 

いつも(*)の存在を認知して生活するようなもの。

 

そして、「認知領域」は、「情報空間」にまで拡がる。

 

「お山の大将」は「小さな『認知領域』」の中 “だけで” 「安全・安心」

『安心・安全』でなければ、「認知領域」は扱えない…

 

「読書(や映画など)」でストレスが軽減されるのは、『認知領域』が狭まって、

「安心・安全」を得れるから。(#安心・安全が土台

 

“予測不能” なことが起きても、「自分の “手の平” の上」で起きたことなので、驚きはすれど、その現象自体には “飲み込まれない” 。

自分が “あらかじめ認知してる世界” の「範囲内の出来事」。許容範囲。

 

現実世界で、予測不能なことが起こるとパニック!「アリエナイ」となる、、

 

『すべてがFになる』(小説)の「認知領域」は閉じている(とハッキリ理解してる)。

だから「安心・安全」で読める。

 

「安心・安全」の立場から観てるので、何が起きても「巻き込まれない」

要は、「楽しめる」

 

一話完結、、、ではない。シリーズ全部繋がった一つの世界

広大な「認知領域」。

 

真賀田四季(森博嗣)が創る世界。すべてはその中で起こるもの。

 

その中で “何が起ころうと” 、不思議はない。(←と分かっている)

ずっと在る「謎」。これに惹きつけられる。

このときの感覚が、さとり「!」

 

この「認知領域」のまま(外)に、しばらくは在れる。

でもしばらくすると、ギャップに苦しむ。問題が発生する。

 

「!」の感覚で似たのがある。

「小説」とか夢中で読んでるとき、その世界に完全にクローズドされた感。

『今ここ!』(【#今に在る】

世界のすべては、この「小説の世界」。(#◆読書

 

我に返ると、世界はもっと広かったことが、、、

 

この「小説の世界」が、現実の世界まで拡大したとき、深い “さとり” が得られるのではないか。。

 

大抵、 “強い人” は、「世界が閉じている」。

「もう、俺にはコレしなかいんだ!」(←このとき完全に「安心・安全」で在る。「怖い」ものが無くなる。)

 

負けるときは、”世界はもっと大きい” ことに気づき、その「世界観の大きさ」に対応できないとき。

「変化しようとしない」とき。

 

(「ドライブ」…車の中に長時間、、、「閉じた世界」だ!)

“この感覚のまま” 、「どうやって世界を拡げるか」。。

 

「認知領域」内は、『安心・安全』だ。

軽い。自由に動ける。

どこまで「認知領域」を拡げられるか。

 

◆ 「認知を密」にしてたら、勝手に拡がっちゃうもの。

◆ 気付き続ける「!!!、、」

◆ 「抽象度」が上がり続ける。

 

ぜんぶ同じこと。

 

 

「認知領域」を拡げるには、、?

 

まず自分の中の「タブー」を無くす。

そうでないと、他人を許せない。

許容範囲は拡がらない。

 

「理」が分かってるからブレない。一貫してる。

 

「アリエナイこと」など起こらない。

何があっても、「やっぱりネ」としか思わない。

ずっと「安心・安全」でいれる。

 

どこまで許容できてるか?

 

「理」を知る・分かる。

 

「認知領域」の大半が、「望まない世界」であるなら、 “そういう認知” が降りてくる。

そういう『在り方』がある、ことを確認する。 “確かに在る” 、と。

 

「認知領域」を拡げる。たとえば、「現象は、自分とは無関係にやって来る」とさとる。

「自分でコントロール不可な領域」まで、『認知領域だ』と認知する。

なかなか思えない。。「努力すればなんでも、、、」と思いたい。

 

実際にやってみると、怖い。「恐怖心」が芽生える。

それはそうで、ほとんどすべてのことが “自分の意思とは無関係” だとしたら、「絶望」でしかない。(【#理由は後付け】~自由意志なんて無い!?

 

だから、世界を狭めて、「安心・安全」を得ようとする。

でも、そのまま「狭い認知領域」で生きてると、必ず出会う。

 

「この世界はそんなに狭くない」という事実と。

 

この事実をどうにかして許容できるか、、、

その繰り返し。無限ループ。

 

「感謝の心」は『認知領域』を拡げる!

「 “自分以外”の力の存在」を認識するから。

 

「他人のため」じゃない。

「自分のため」にやれ。(【#利己的】~「自分の問題」だけを解決してればいい。。

 

自分の “意思をもって”「感謝する」ときは、一時的な「疑似体験」

つまり、「感謝しよう」と思ってやってるとき。

理由は何であれ。道徳的に。

 

『認知領域』が拡がるか。

、、、拡がらない。

 

頭では分かっているが、心には「ワダカマリ」がある。

、、、「分かって」ない。「(頭が)知っている」だけ。

 

「(形だけ)感謝」してたら習慣化する・変わる、のではなく、

『在り方』が “そう” だから、「感謝 “してしまう”」、だ。(#『在り方』(在りよう)

因果が逆なんだ。(#因果が逆

 

「自分なんてラッキーだった。。」と思うことで、

自分の『認知領域』は拡がった。

 

映画「ベスト・キッド2」のヒロイン役がオーディションで、そう思ったらしい。

「自分なんてラッキーだった。。」(猫の「たまたま」と、『この世界の見方』のはなし。

「youは何しに日本へ」で言ってた。

すごく幸せそうだった。。

 

「傲慢になるな!」という、いわゆる『戒め』の類も、「認知」の話

「認知」を狭めるな!

 

「執着」すると「認知」が狭まる

思考・感情・感覚・(外)の現象に。。

 

「苦労」するのは “織込み(許容)済み”とする。

どこまで「織り込み済み」か?(「認知領域」)

 

すべてを織り込み済みにする(許容)のが “さとり”

 

「織込み済みism」

「織り込み」済む、「織り込み」済め、「織り込み済もう」ぜ!

 

「休日」は押さえつけられてた『認知領域』が拡がる

この解放感!

 

日曜の夕方ごろに狭まってくる

 

「不足」したら、いつでも強固な「狭い『認知領域』」に戻ればいい

そこで絶対的『安心・安全』を確認したら、また(外)へ行く。

 

そうやって “少しづつ” 『認知領域』を拡げていく。

 

「問題」を “減らす” 方に行かなければ…

「分別の無い世界」へ。(#比較・判断・優劣

 

そうは言っても、、「認知領域」はブレる

どんなに「!これだ」と、思っても…

 

それが「理」なんだ。

意識は “揺らぐ” のがデフォルト。(#ゆらぎ

 

 

これではあまりにも「認知領域」が狭すぎる、、

 

「AI」は、どうやっても人間の「認知領域」内。

一歩もはみ出ない。

 

いちいち「国」や「社会」に腹立ててたら…

社会や国が「自分ごと」になってるw

一緒にすなw

 

そんなに「わたし」は狭くない!(#わたし・自我

 

「スポーツが好き」な人は、自分の「身体感覚」が好きな人

「スポーツ自体・そのもの」が好きなのではなく、あくまで、それをやってるときの「 “自分の” 感覚・感情」が好き

 

「そのスポーツ」が無くなったら、人生終了ではない。

それでは、「認知領域」が狭すぎる。

 

「燃え尽き症候群」になるのは、「認知が及んでいない」だけ。(#認知の盲点

「そのスポーツ」が「自分の世界のすべて」=「認知できてる世界」

 

「金さえ有れば、、、」、、、?

『認知領域』が狭すぎるw

 

「!」そうか、これが「認知ではなく」、皆が避ける・嫌う「うんち💩」か!

「認知」改め「Unchi」

 

どんな認知も、「認知」は「うんち💩」でしかない。

あの皆から避けられ、隠され、嫌がられ、、、

 

でも子供に向って「うんち💩」!と言うだけで「笑い」が起きる。

つまり、子供のうんち💩に対する『許容範囲』の広さ。

 

今の時代に「昭和のお笑いを一世風靡した○○」が受け入れられないのは、、、

「他人の粗を笑う」というスタイルが、”狭い” と感じられるからだろうな。

人間の「認知領域」はどんどん広くなっている。。

 

そして本人たちは気付かない。

気付いても、解決できない。

ずっと渦中に居るんだな。。

 

世界を狭めてるものは何か?

世間じゃない。

それを “くみ取ってしまってる”「自分の認知」だ。

 

♪ 世界は閉ざされたまま? NO NO NO それはない NO NO NO そうじゃない

『LIVING TIME』吉井和哉

 

『認知領域』の一番 “外枠” が「社会」がでは狭すぎる。

もっと世界は広大だ。

 

そもそも「社会」なんて人間が創ったもの。想像の「概念」。

“元々在る” 「この世界」は、もっともーっと広いんだ。

 

認知が及べば、「なぁんだそうか…」とスルーできるのに、

「認知が及ばない」ばっかりに、ダメージを食らうのは、”もったいない” 。。(#認知の盲点

 

 

「認知領域」を広く保って、その先に進む。

 

「判断ミス」は、「認知領域 “外” 」で「許容してない現象」が起こったとき、起きる。

「安心・安全」から離れてしまう。

 

「今ここ」に居ない状態。。

【#今に在る】

 

相手の「認知領域」より広いと勝つ

宮本武蔵 巌流島

武蔵の「認知領域」は、「剣の腕の勝負」 “だけ” ではなかった。

 

このブログに書いていることに、自分で “「✘」バッテン” をくれるときは、

つまり、「否定」できたとき、「わたし」の世界は拡がったと言える。(#わたし・自我

「過去の自分」を否定することができたとき。。

 

「自由」とは何だ?

やりたいこと好きなだけ出来る。。。?

そんなに狭くない。

 

やりたいことも出来るし、やりたいことを “しなくても” いい、だ。

やっても、やらなくても、どっちでもいい。

(「やらなくても」を認知から排除しない)

 

もっと言えば、

「自由であろうが、なかろうが、どっちでもいい。そこは問題じゃない」だ。(#新しい問題解決法

(「なかろうが」を認知から排除しない)

 

「遊びがある」は、盲点ではない。

「認知領域」の範囲内だ。

だから扱える。

 

『安心・安全』を感じるには、「欲を少なくする」ってことか?

「小欲」とは「世界を小さくする」こと。

 

確かに自分の世界(『認知領域』)にこもると、『安心・安全』が訪れる。だけど、

これだと、その世界の(外)に出たときに絶望する。(#安心・安全が土台

 

世界はそんなに狭くない。

「認知領域は大きく」して、「大きな欲を満たす」のだ。(#ほんとうの欲求

 

「無意識」は、明確に「① “認知できる” もの」と、「② “出来ない” もの」がある。

「① “認知できる” もの」は、「心臓」とか「呼吸」とか、、 “意識を向けたとき” 認知できる。

これは皆んな感覚的に分かる。

 

「② “認知できない” もの」には、

『②-(1) “認知できない” けど、「作用してる(向いてる)」もの』と

『②-(2) “認知できない” し、「作用を及ぼさないもの』がある。

(※正確には、「影響が限りなく少ない」もの。②-(1)と②-(2)の間は明確な境界線はなく、グラデーションみたいなもん)

 

どこまで「認知に “含める” 」ことができるか。。

 

『ドラゴンボール』の世界は、 “限界” を感じてる?

神がいて、海王神がいて、宇宙神がいて、第一、第二、、、

「論理・理屈」には “限界がある” 。

 

そこを突破するのは、「ワケワカランモノ」・「アリエナイもの」の存在を出すしかない。

 

なんで「科学」や「論理」の “上” に「なんか訳分からんもん」を上にしたほうがうまくいくのか。

どこまでいっても、『認知領域』が “閉じない” から

広大なんだ。

 

なんとでもなるから

行き詰まらない

 

「矛盾」をも「包含」できる。

絶望しない

 

「人間主体」じゃなくて、「なんかワケワカランモン」を上にしたほうが上手くいく

 

「社会構造」も「自分」も同じ。

「ナンカワケワカランモン」を上に置いといた方が上手くいく。

 

「ワケワカランモン」。。例えば『夢』

♪ 引き返す訳にゃいかないぜ 夢がオレたちを見張ってる

『雷雨決行』ザ・クロマニヨンズ

 

「認知領域」のいっちゃん外側が、『夢』なんだ。

なんて素敵!

 

『夢』が「 “社会” の内側」にあると、ちとやべー💦かも。

公務員だったり、警察官だったり、スポーツ選手でさえも。

 

子供の頃の『夢』が、

「You Tuber」だったり、「サッカー選手」、「プロ野球選手」なのはヤバイ!

 

なんで「ウルトラマン」などではないんだ?

ウルトラマンだったら引っ張りだこだろ。

 

「公務員」になって何をしたいのか?「You Tuber」で何をしたいのか?

「公務員」や「You Tuber」の向こう側を見よ。

 

職業は『夢』に値しない。

 

『親孝行したい』←コレはでけー!

完全に「職業」の “はるか向こう側” だ!

「職業が何か」は “問題ではない” 。(#新しい問題解決法

 

「ナンカワケワカランモン」も、すぐに「あれ?何か違うな。。」になるので、

またその上位互換の「新・ワケワカランモン」を創り出さないといけなくなる。

ずっとその繰り返し。

 

、、やめましょう。

 

「ナンカワケワカランモン」が上に在る。 ということを(なぜだか知らないけれども)分かっている。許容している。

以上、ここまで!

 

何か「理解不能な現象」に出会うと、「あーこういうことか!」

と、ストーリーが瞬時に導き出される。

脳は物語(ストーリー)製造機。

それをプロレスとして楽しむ。

 

今まで数々の「悪人」と呼ばれる人がいたのに、なぜ支配は続かないのか?なぜ世界は滅んでないのか?

「善人」がいたから。

『認知領域』の広さが違うのだ。

 

「善人」だから広いのではない。

、、、逆。

 

『認知世界』が広いと、「善人」になってしまうのだ。(#因果が逆

あらゆることが分かってしまうので。。

 

「自分」が解決できなくても、「仲間」が解決してしまう。。

『オーシャンズ13』の「ルーベン」のように。

 

「ルーベン」は、いつでも仲間の『認知領域』の “範囲内” に在って、「放うっておけない存在」なのだ。

 

「放っとけない人」は、誰かの「認知領域」に常に入ってる。

自分が死んだあとも…

空海は分かってたんじゃないかなぁ。。「自分の死後、何百年、いや千年を超えてもなお、『影響力』を及ぼす」ことを。

 

『許容』が大きくなると、「わたし」とか「他者」とかの『区別』がなくなる

「利己的」「利他的」も無い、

「あー、そんなのあったなぁ。。。で、それが何か?」

#比較・判断・優劣

 

「認知が密」で在ることは、「認知領域が広い」と同義。

それだけ多くのことを「認知」できる。

心が広い。

どこまで「認知」できるか。

 

米粒一つ残さない。

お百姓さんが丹精込めて作ってくれた。

、、、、(#認知の密度

 

神や宇宙と繋がった。。←ここまで来たら「カーッ!」だな。偏り過ぎだ。(#偏り

 

『認知領域』を広くするには、「(外)・無限大」ではなく、「(内)・無限小」を向く。

自分の「認知が密」で無かったら、いくら(外)へ行っても、情報は “スルー” 通り過ぎ、見逃してしまう。

逆に「認知が密」なら、”待ってるだけ” でいい。現象(外)は絶えず現れる。

 

♪ 探しものが あるのではなく 出会うものすべてを 待っていた ~

見えるものだけ それさえあれば たどり着けない答えは ないぜ ~

『生きる』ザ・クロマニヨンズ

 

『認知領域』を広くするには、「(外)・無限大」ではなく、「(内)・無限小」を向く。(#意識の向き

 

『極小に在れば、極大を知れる』~フラクタル!

(内)に向かうと『認知領域』が拡がる。逆説的だけど。

 

「認知が “無限小” に密」になると、気付ける「!」ことが増える。(#認知の密度

「!」のとき、『認知領域』は拡がる。

 

フラクタル!

 

~ ごあいさつ ~ ハチ@夢中

瞑想やってます。日記書いてます。 ウソかホントか、よく分からない話を読んでくれてありがとう。自分が「認知した世界」を少しづつ書き溜めてます。 (♪素敵なものが欲しいけど あんまり売ってないから 好きな歌を歌う 『JAM』THE YELLOW MONKEY) 自分の頭の中を覗かれるようで恥ずかしいけど、公開します。(後悔しません!) 「ここが違うよ!」「それは分かる」「合ってるよ!」何でもご意見・ご感想頂けると嬉し いです。(難しいことは分かりませんw)