誰しも自分の中に、その瞬間、『認知してる範囲』が在って、、、
狭かったり、広かったり、、、
常に “アメーバ” のように「動いている」。狭まったり、拡がったり。
狭くても、その中で「尖れ」ば、『安心・安全』でいれる。(#安心・安全が土台)
広くても同じ。「尖る」かどうか。(#偏り)
どれだけ世界が「広いか」で、 “生きやすさ” が違う。
広さは「許容」。どれだけ許容できるか。
それは「認知」に現れる。
その『認知領域』の範囲が、= 今この瞬間の『わたし』
- 1. 「認知領域」とは?
- 2. 「認知領域」を拡げるには、、?
- 2.1. まず自分の中の「タブー」を無くす。
- 2.2. 「理」が分かってるからブレない。一貫してる。
- 2.3. 「認知領域」の大半が、「望まない世界」であるなら、 “そういう認知” が降りてくる。
- 2.4. 「認知領域」を拡げる。たとえば、「現象は、自分とは無関係にやって来る」とさとる。
- 2.5. 「感謝の心」は『認知領域』を拡げる!
- 2.6. 自分の “意思をもって”「感謝する」ときは、一時的な「疑似体験」
- 2.7. 「自分なんてラッキーだった。。」と思うことで、
- 2.8. 「傲慢になるな!」という、いわゆる『戒め』の類も、「認知」の話
- 2.9. 「執着」すると「認知」が狭まる
- 2.10. 「苦労」するのは “織込み(許容)済み”とする。
- 2.11. 「休日」は押さえつけられてた『認知領域』が拡がる
- 2.12. 「不足」したら、いつでも強固な「狭い『認知領域』」に戻ればいい
- 2.13. 「問題」を “減らす” 方に行かなければ…
- 2.14. そうは言っても、、「認知領域」はブレる
- 3. これではあまりにも「認知領域」が狭すぎる、、
- 4. 「認知領域」を広く保って、その先に進む。
- 4.1. 「判断ミス」は、「認知領域 “外” 」で「許容してない現象」が起こったとき、起きる。
- 4.2. 相手の「認知領域」より広いと勝つ
- 4.3. このブログに書いていることに、自分で “「✘」バッテン” をくれるときは、
- 4.4. 「自由」とは何だ?
- 4.5. 「遊びがある」は、盲点ではない。
- 4.6. 『安心・安全』を感じるには、「欲を少なくする」ってことか?
- 4.7. 「無意識」は、明確に「① “認知できる” もの」と、「② “出来ない” もの」がある。
- 4.8. 『ドラゴンボール』の世界は、 “限界” を感じてる?
- 4.9. なんで「科学」や「論理」の “上” に「なんか訳分からんもん」を上にしたほうがうまくいくのか。
- 4.10. 「社会構造」も「自分」も同じ。
- 4.11. 「ワケワカランモン」。。例えば『夢』
- 4.12. 「ナンカワケワカランモン」も、すぐに「あれ?何か違うな。。」になるので、
- 4.13. 「ナンカワケワカランモン」が上に在る。 ということを(なぜだか知らないけれども)分かっている。許容している。
- 4.14. 今まで数々の「悪人」と呼ばれる人がいたのに、なぜ支配は続かないのか?なぜ世界は滅んでないのか?
- 4.15. 『許容』が大きくなると、「わたし」とか「他者」とかの『区別』がなくなる
- 4.16. 「認知が密」で在ることは、「認知領域が広い」と同義。
- 4.17. 『認知領域』を広くするには、「(外)・無限大」ではなく、「(内)・無限小」を向く。
- 4.18. 『極小に在れば、極大を知れる』~フラクタル!
「認知領域」とは?
認知している領域…「在る」のが分かっている
“そういう現象” が、ただ「在る」ことを。
“詳細” な「しくみ」や「要因」、「理屈」までは “理解できなく” とも
なぜ「心」ではなく「意識」でもなく、「認知」の広さ(認知領域)なのか?
心なんていう、在るのか無いのか分からない、人によって、状況によって、その実態が変化してしまうものではなく、
もう少しクリアにその要因が掴める「認知」の方が、自分には体験的に “しっくり” きた。
別に表し方は、何だっていい。。「ことば」だから。
それと、明らかに「コーヒー」飲んだ後は、そういう『在り方』になりやすい。
脳の血流量が上がったから。。脳の機能的なことなのでは。。認知だ!
「気象病」のときは、頭が働かない。何をやってもダメ。
やり過ごすしかできない。。
「低血糖症」でも同じ。
「認知領域」の “認知” は、「(頭で)知っている」ではない。
「分かっている」「許容している」「包含している」
どんなに「知識」を入れても、”そこ” には辿り着けない。
すべての「細かいこと」を “知っている” のではない。
「抽象度」を上げて理解する(が近い?)しかない、、、
「考える」よりも「思い付く」
「積み上げ型」は遅いし、「ヌケモレ」がある
まるっと一気に「括る・閉じる」と「ヌケモレ」が無い
「括った!」という “感覚”
「自転車」に乗るのも、自分で最初から最後まで、あーかなこーかな、
ヌケモレなくやったはず。
人それぞれ違ったヌケモレ。
自分のヌケモレを埋めてった。。
「認知領域」を「お尻の穴(*)」で例えると、、
普段は(*)は、認知に上がってない。
意識すると、その存在が確認できる。
でも、色や形などの状態は分からない。
分かるのは、 “確かに在る” という、その「感じ」。
いつも(*)の存在を認知して生活するようなもの。
そして、「認知領域」は、「情報空間」にまで拡がる。
「お山の大将」は「小さな『認知領域』」の中 “だけで” 「安全・安心」
『安心・安全』でなければ、「認知領域」は扱えない…
「読書(や映画など)」でストレスが軽減されるのは、『認知領域』が狭まって、
「安心・安全」を得れるから。(#安心・安全が土台)
“予測不能” なことが起きても、「自分の “手の平” の上」で起きたことなので、驚きはすれど、その現象自体には “飲み込まれない” 。
自分が “あらかじめ認知してる世界” の「範囲内の出来事」。許容範囲。
現実世界で、予測不能なことが起こるとパニック!「アリエナイ」となる、、
『すべてがFになる』(小説)の「認知領域」は閉じている(とハッキリ理解してる)。
だから「安心・安全」で読める。
「安心・安全」の立場から観てるので、何が起きても「巻き込まれない」
要は、「楽しめる」
一話完結、、、ではない。シリーズ全部繋がった一つの世界
広大な「認知領域」。
真賀田四季(森博嗣)が創る世界。すべてはその中で起こるもの。
その中で “何が起ころうと” 、不思議はない。(←と分かっている)
ずっと在る「謎」。これに惹きつけられる。
このときの感覚が、さとり「!」
この「認知領域」のまま(外)に、しばらくは在れる。
でもしばらくすると、ギャップに苦しむ。問題が発生する。
「!」の感覚で似たのがある。
「小説」とか夢中で読んでるとき、その世界に完全にクローズドされた感。
『今ここ!』(【#今に在る】)
世界のすべては、この「小説の世界」。(#◆読書)
我に返ると、世界はもっと広かったことが、、、
この「小説の世界」が、現実の世界まで拡大したとき、深い “さとり” が得られるのではないか。。
大抵、 “強い人” は、「世界が閉じている」。
「もう、俺にはコレしなかいんだ!」(←このとき完全に「安心・安全」で在る。「怖い」ものが無くなる。)
負けるときは、”世界はもっと大きい” ことに気づき、その「世界観の大きさ」に対応できないとき。
「変化しようとしない」とき。
(「ドライブ」…車の中に長時間、、、「閉じた世界」だ!)
“この感覚のまま” 、「どうやって世界を拡げるか」。。
「認知領域」内は、『安心・安全』だ。
軽い。自由に動ける。
どこまで「認知領域」を拡げられるか。
◆ 「認知を密」にしてたら、勝手に拡がっちゃうもの。
◆ 気付き続ける「!!!、、」
◆ 「抽象度」が上がり続ける。
ぜんぶ同じこと。
「認知領域」を拡げるには、、?
まず自分の中の「タブー」を無くす。
そうでないと、他人を許せない。
許容範囲は拡がらない。
「理」が分かってるからブレない。一貫してる。
「アリエナイこと」など起こらない。
何があっても、「やっぱりネ」としか思わない。
ずっと「安心・安全」でいれる。
どこまで許容できてるか?
「理」を知る・分かる。
「認知領域」の大半が、「望まない世界」であるなら、 “そういう認知” が降りてくる。
そういう『在り方』がある、ことを確認する。 “確かに在る” 、と。
「認知領域」を拡げる。たとえば、「現象は、自分とは無関係にやって来る」とさとる。
「自分でコントロール不可な領域」まで、『認知領域だ』と認知する。
なかなか思えない。。「努力すればなんでも、、、」と思いたい。
実際にやってみると、怖い。「恐怖心」が芽生える。
それはそうで、ほとんどすべてのことが “自分の意思とは無関係” だとしたら、「絶望」でしかない。(【#理由は後付け】~自由意志なんて無い!?)
だから、世界を狭めて、「安心・安全」を得ようとする。
でも、そのまま「狭い認知領域」で生きてると、必ず出会う。
「この世界はそんなに狭くない」という事実と。
この事実をどうにかして許容できるか、、、
その繰り返し。無限ループ。
「感謝の心」は『認知領域』を拡げる!
「 “自分以外”の力の存在」を認識するから。
「他人のため」じゃない。
「自分のため」にやれ。(【#利己的】~「自分の問題」だけを解決してればいい。。)
自分の “意思をもって”「感謝する」ときは、一時的な「疑似体験」
つまり、「感謝しよう」と思ってやってるとき。
理由は何であれ。道徳的に。
『認知領域』が拡がるか。
、、、拡がらない。
頭では分かっているが、心には「ワダカマリ」がある。
、、、「分かって」ない。「(頭が)知っている」だけ。
「(形だけ)感謝」してたら習慣化する・変わる、のではなく、
『在り方』が “そう” だから、「感謝 “してしまう”」、だ。(#『在り方』(在りよう))
因果が逆なんだ。(#因果が逆)
「自分なんてラッキーだった。。」と思うことで、
自分の『認知領域』は拡がった。
映画「ベスト・キッド2」のヒロイン役がオーディションで、そう思ったらしい。
「自分なんてラッキーだった。。」(猫の「たまたま」と、『この世界の見方』のはなし。)
「youは何しに日本へ」で言ってた。
すごく幸せそうだった。。
「傲慢になるな!」という、いわゆる『戒め』の類も、「認知」の話
「認知」を狭めるな!
「執着」すると「認知」が狭まる
思考・感情・感覚・(外)の現象に。。
「苦労」するのは “織込み(許容)済み”とする。
どこまで「織り込み済み」か?(「認知領域」)
すべてを織り込み済みにする(許容)のが “さとり”
「織込み済みism」
「織り込み」済む、「織り込み」済め、「織り込み済もう」ぜ!
「休日」は押さえつけられてた『認知領域』が拡がる
この解放感!
日曜の夕方ごろに狭まってくる
「不足」したら、いつでも強固な「狭い『認知領域』」に戻ればいい
そこで絶対的『安心・安全』を確認したら、また(外)へ行く。
そうやって “少しづつ” 『認知領域』を拡げていく。
「問題」を “減らす” 方に行かなければ…
「分別の無い世界」へ。(#比較・判断・優劣)
そうは言っても、、「認知領域」はブレる
どんなに「!これだ」と、思っても…
それが「理」なんだ。
意識は “揺らぐ” のがデフォルト。(#ゆらぎ)
これではあまりにも「認知領域」が狭すぎる、、
「AI」は、どうやっても人間の「認知領域」内。
一歩もはみ出ない。
いちいち「国」や「社会」に腹立ててたら…
社会や国が「自分ごと」になってるw
一緒にすなw
そんなに「わたし」は狭くない!(#わたし・自我)
「スポーツが好き」な人は、自分の「身体感覚」が好きな人
「スポーツ自体・そのもの」が好きなのではなく、あくまで、それをやってるときの「 “自分の” 感覚・感情」が好き
「そのスポーツ」が無くなったら、人生終了ではない。
それでは、「認知領域」が狭すぎる。
「燃え尽き症候群」になるのは、「認知が及んでいない」だけ。(#認知の盲点)
「そのスポーツ」が「自分の世界のすべて」=「認知できてる世界」
「金さえ有れば、、、」、、、?
『認知領域』が狭すぎるw
「!」そうか、これが「認知ではなく」、皆が避ける・嫌う「うんち💩」か!
「認知」改め「Unchi」
どんな認知も、「認知」は「うんち💩」でしかない。
あの皆から避けられ、隠され、嫌がられ、、、
でも子供に向って「うんち💩」!と言うだけで「笑い」が起きる。
つまり、子供のうんち💩に対する『許容範囲』の広さ。
今の時代に「昭和のお笑いを一世風靡した○○」が受け入れられないのは、、、
「他人の粗を笑う」というスタイルが、”狭い” と感じられるからだろうな。
人間の「認知領域」はどんどん広くなっている。。
そして本人たちは気付かない。
気付いても、解決できない。
ずっと渦中に居るんだな。。
世界を狭めてるものは何か?
世間じゃない。
それを “くみ取ってしまってる”「自分の認知」だ。
♪ 世界は閉ざされたまま? NO NO NO それはない NO NO NO そうじゃない
『LIVING TIME』吉井和哉
『認知領域』の一番 “外枠” が「社会」がでは狭すぎる。
もっと世界は広大だ。
そもそも「社会」なんて人間が創ったもの。想像の「概念」。
“元々在る” 「この世界」は、もっともーっと広いんだ。
認知が及べば、「なぁんだそうか…」とスルーできるのに、
「認知が及ばない」ばっかりに、ダメージを食らうのは、”もったいない” 。。(#認知の盲点)
「認知領域」を広く保って、その先に進む。
「判断ミス」は、「認知領域 “外” 」で「許容してない現象」が起こったとき、起きる。
「安心・安全」から離れてしまう。
「今ここ」に居ない状態。。
相手の「認知領域」より広いと勝つ
宮本武蔵 巌流島
武蔵の「認知領域」は、「剣の腕の勝負」 “だけ” ではなかった。
このブログに書いていることに、自分で “「✘」バッテン” をくれるときは、
つまり、「否定」できたとき、「わたし」の世界は拡がったと言える。(#わたし・自我)
「過去の自分」を否定することができたとき。。
「自由」とは何だ?
やりたいこと好きなだけ出来る。。。?
そんなに狭くない。
やりたいことも出来るし、やりたいことを “しなくても” いい、だ。
やっても、やらなくても、どっちでもいい。
(「やらなくても」を認知から排除しない)
もっと言えば、
「自由であろうが、なかろうが、どっちでもいい。そこは問題じゃない」だ。(#新しい問題解決法)
(「なかろうが」を認知から排除しない)
「遊びがある」は、盲点ではない。
「認知領域」の範囲内だ。
だから扱える。
『安心・安全』を感じるには、「欲を少なくする」ってことか?
「小欲」とは「世界を小さくする」こと。
確かに自分の世界(『認知領域』)にこもると、『安心・安全』が訪れる。だけど、
これだと、その世界の(外)に出たときに絶望する。(#安心・安全が土台)
世界はそんなに狭くない。
「認知領域は大きく」して、「大きな欲を満たす」のだ。(#ほんとうの欲求)
「無意識」は、明確に「① “認知できる” もの」と、「② “出来ない” もの」がある。
「① “認知できる” もの」は、「心臓」とか「呼吸」とか、、 “意識を向けたとき” 認知できる。
これは皆んな感覚的に分かる。
「② “認知できない” もの」には、
『②-(1) “認知できない” けど、「作用してる(向いてる)」もの』と
『②-(2) “認知できない” し、「作用を及ぼさないもの』がある。
(※正確には、「影響が限りなく少ない」もの。②-(1)と②-(2)の間は明確な境界線はなく、グラデーションみたいなもん)
どこまで「認知に “含める” 」ことができるか。。
『ドラゴンボール』の世界は、 “限界” を感じてる?
神がいて、海王神がいて、宇宙神がいて、第一、第二、、、
「論理・理屈」には “限界がある” 。
そこを突破するのは、「ワケワカランモノ」・「アリエナイもの」の存在を出すしかない。
なんで「科学」や「論理」の “上” に「なんか訳分からんもん」を上にしたほうがうまくいくのか。
どこまでいっても、『認知領域』が “閉じない” から
広大なんだ。
なんとでもなるから
行き詰まらない
「矛盾」をも「包含」できる。
絶望しない
「人間主体」じゃなくて、「なんかワケワカランモン」を上にしたほうが上手くいく
「社会構造」も「自分」も同じ。
「ナンカワケワカランモン」を上に置いといた方が上手くいく。
「ワケワカランモン」。。例えば『夢』
♪ 引き返す訳にゃいかないぜ 夢がオレたちを見張ってる
『雷雨決行』ザ・クロマニヨンズ
「認知領域」のいっちゃん外側が、『夢』なんだ。
なんて素敵!
『夢』が「 “社会” の内側」にあると、ちとやべー💦かも。
公務員だったり、警察官だったり、スポーツ選手でさえも。
子供の頃の『夢』が、
「You Tuber」だったり、「サッカー選手」、「プロ野球選手」なのはヤバイ!
なんで「ウルトラマン」などではないんだ?
ウルトラマンだったら引っ張りだこだろ。
「公務員」になって何をしたいのか?「You Tuber」で何をしたいのか?
「公務員」や「You Tuber」の向こう側を見よ。
職業は『夢』に値しない。
『親孝行したい』←コレはでけー!
完全に「職業」の “はるか向こう側” だ!
「職業が何か」は “問題ではない” 。(#新しい問題解決法)
「ナンカワケワカランモン」も、すぐに「あれ?何か違うな。。」になるので、
またその上位互換の「新・ワケワカランモン」を創り出さないといけなくなる。
ずっとその繰り返し。
、、やめましょう。
「ナンカワケワカランモン」が上に在る。 ということを(なぜだか知らないけれども)分かっている。許容している。
以上、ここまで!
何か「理解不能な現象」に出会うと、「あーこういうことか!」
と、ストーリーが瞬時に導き出される。
脳は物語(ストーリー)製造機。
それをプロレスとして楽しむ。
今まで数々の「悪人」と呼ばれる人がいたのに、なぜ支配は続かないのか?なぜ世界は滅んでないのか?
「善人」がいたから。
『認知領域』の広さが違うのだ。
「善人」だから広いのではない。
、、、逆。
『認知世界』が広いと、「善人」になってしまうのだ。(#因果が逆)
あらゆることが分かってしまうので。。
「自分」が解決できなくても、「仲間」が解決してしまう。。
『オーシャンズ13』の「ルーベン」のように。
「ルーベン」は、いつでも仲間の『認知領域』の “範囲内” に在って、「放うっておけない存在」なのだ。
「放っとけない人」は、誰かの「認知領域」に常に入ってる。
自分が死んだあとも…
▶空海は分かってたんじゃないかなぁ。。「自分の死後、何百年、いや千年を超えてもなお、『影響力』を及ぼす」ことを。
『許容』が大きくなると、「わたし」とか「他者」とかの『区別』がなくなる
「利己的」「利他的」も無い、
「あー、そんなのあったなぁ。。。で、それが何か?」
「認知が密」で在ることは、「認知領域が広い」と同義。
それだけ多くのことを「認知」できる。
心が広い。
どこまで「認知」できるか。
米粒一つ残さない。
お百姓さんが丹精込めて作ってくれた。
、、、、(#認知の密度)
神や宇宙と繋がった。。←ここまで来たら「カーッ!」だな。偏り過ぎだ。(#偏り)
『認知領域』を広くするには、「(外)・無限大」ではなく、「(内)・無限小」を向く。
自分の「認知が密」で無かったら、いくら(外)へ行っても、情報は “スルー” 通り過ぎ、見逃してしまう。
逆に「認知が密」なら、”待ってるだけ” でいい。現象(外)は絶えず現れる。
♪ 探しものが あるのではなく 出会うものすべてを 待っていた ~
見えるものだけ それさえあれば たどり着けない答えは ないぜ ~
『生きる』ザ・クロマニヨンズ
『認知領域』を広くするには、「(外)・無限大」ではなく、「(内)・無限小」を向く。(#意識の向き)
『極小に在れば、極大を知れる』~フラクタル!
(内)に向かうと『認知領域』が拡がる。逆説的だけど。
「認知が “無限小” に密」になると、気付ける「!」ことが増える。(#認知の密度)
「!」のとき、『認知領域』は拡がる。
フラクタル!