【瞑想日記】更新中!

【#瞑想日記】2023年03月~

【#瞑想日記】2023年03月~

2023年03月~

「なんで急にこんなこと思ったんだろう?🤔」あきらかに瞑想によって得られる認知。

単なる「思い付き」とは言えない。

だって、『結論が先に分かって、後から論理・理屈に出会う』、そんな経験が多いから。

ここに書いておこう。。

「わたし」が、ただ認知したことの書き溜め。

読み返すと、「矛盾」もある。

だけど、わたしの中では「ワダカマリ」が無い。

 

目次

おNEW!

 

「保とう」「留まろう」とすることが、「理」から外れてる

 

「自在」とは。。

そこにも居れるし、あそこにも、あっちにも居れる。。

広い認知領域の範囲内で。

 

勝つには、、「良い手が来た時に、一発勝負に出る。これしかない。」

映画『オーシャンズ11』 (14’20″) ダニーのセリフ

 

世界は揺らいでる。

偏って、解消して。また偏って、解消して、、

 

“その時” まで待つ。

カウンターを狙うように…

 

自分は止まってなきゃ変化したことに気付けない。

ましてや誰かに動かされていたら、、

【長い時間軸で観る】~今、ほんとうに「どん底」かどうか、、怪しいと思った方がいい。。「WBC」「1勝9敗」「1クールの、、」

 

カントの「人間はモノ自体には到達できない」とは、

ぶっちゃけちゃうと、「ぜんぶ思い込み」ってこと、、?

 

他人のことにはよく気付くけど、自分のことには気付けない。。

外側にいるから。自分ごとではないから気付ける。

巻き込まれてない。

 

自分のやってる行動を観察できてるか?

 

神社や漢方や宗教がやっていること、それを自分にすればいい。。

ていうか、みんなそれしかやってない。

分かってやってるか、やらされてるかの違いはあるが、、

 

自動で勝手に浮かんでくる「認知」を、「捨てる」か「受け入れる」か、そこにだけ人間の「自由」が有る。

 

「軽くなった。。」という体感を、密に感じてみる。。

そうやると、『縁』が太く・密になるのでは?

「脳の可塑性」と言ってしまえば、それまでだが、、

【#脳の可塑性】~ゆっくりと、知らないあいだに、、

 

それが大事だと頭ではわかっているけれど、、

そのために瞑想する。

脳のデフォルトをそっちにしない。

 

休日に遊んでいても、仕事のことが過ぎって楽しめない…

「認知領域」内に、「今ここ」が無い。

「今ここ」に居ていいんだ。ぜんぶ分かって「今ここ」に居るんだ。。

 

自在に操れないと…

「切り替える」とか、そういうこと。出来る人は出来るんだ。

 

抽象思考すれば、「自分の体験」だけでなく、「誰かの結果」から『理』を得ることもできる

WBC準決勝メキシコ戦、村上の逆転サヨナラ弾。

【長い時間軸で観る】~今、ほんとうに「どん底」かどうか、、怪しいと思った方がいい。。「WBC」「1勝9敗」「1クールの、、」

 

「観ようとする」から「止まる」。「止まる」から「観れる」のではない。

無限小の「点・」である「わたし」に、焦点を向けていくと、

 

「身体(感覚)」も「思考」も「感情」も、「(外の)現象」になり、

「観察対象」になる。(「他人ごと」になる)

 

すると、動きに無駄がなくなる。ほぼ止まる。

 

これも因果が逆なんだ!

「観ようとする」から「止まる」。

「止まる」から「観れる」のではない。

 

「数字」や「ことば」は “認知されるため” の「信号」でしかない。

“掘り出し物” は、他にある。

 

「祈る」っていうのは、、、

その「結果」は、

「自分」のせいではないし、

もちろん「他人」のせいでも、「何か」のせいでもない…

 

「認知領域」を拡げてるんだな。

許容する…

 

何か、「共通しているモノ」を持っていたい。。

環境・状況の変化に対応する “何か” 。。

「夢中」、「体力」、、

「体力」は、まだ付けられる。。

「今できること」をするしかない、どうせ。。

 

「生きがい」が見つからないなら、、「今、この瞬間」を「生きがい」にできるかどうか、を「生きがい」にすればいい。

どうやったら、そうなれるか。。

一生遊べるw

 

(外の)現象に「重要度」を置き過ぎなんだ。偏ってる。

「重要度」は変えられる。

それに気付いていないだけ。。

 

ブログが愛おしいものに感じてきた。。

捨てられない。執着。

それは文字数・記事数によるものではなく、ダラダラと費やした時間によよるのでもなく、、

濃密な密度のような…『縁』

 

「欲求」は、何によって起こるか?

猫が「外に行きたい」と鳴くのは、外に行ったことがあるから。外を知ったから。

「外に行けるかどうか」は “オレの選択” に委ねられてる。

「自らの意志」では決して外には出られない…

オレ(人間)も同じでは、、?

 

いかなる「形態」からも “無関係” になる

「会社」という形態、「社会」という形態、「家族」という、「人間」という、「世界」という、、、

これが『自由』か。。?

 

「それって、”社会的に見たら” でしょ?」

「私の『許容範囲』は、社会をも包含してるから。」

 

この人に出会ったから、この本に出会ったから…

そんな「点」じゃない。『縁』だ。もっと “無数の要因” が絡んで、今この瞬間も変化している。

要因を探しても人間にはたどり着けない。

たどり着けたとしても、どうせそれは、抽象度上げて情報量を少なくして、

「分別」とか「わたし」とか。。

 

もう「さとり」だけを目指さない。 #「さとり」も『在り方』の一つ

「さとり」って、ひょっとして、超狭く閉じた中に在ることでも、「安心・安全」を感じていられる状態なのでは、、?

生まれ持った「私が在る」という “感じ” を偏って遮断してるような、、

適度に感じててもいいものかも知れない…

または、自在に行き来するもの。。

 

訳も分からず、「気分が悪い」ときって、

「無意識に認知したもの」と、「今」を比較してるんだろうなぁ。。

それが何かは、分からない。

原因を探そうとすると、余計ドツボにハマる。

 

とりあえず、全認知を捨てよう。。

 

自分がなんでそんなこと思ったのか?というのは、

「自分とはまったく関係ないもの」が作用してることもある。

 

時代の流れ、環境・状況

集合意識とか、

神社とか、天皇とかの類、

DNAを超えた、2対8のアリ、高身長×高身長、の例…

 

削って、尖る。

「今、そのままの自分」が受け入れられなければ、

どのみち辛い、、

ほんとうの「わたし」を削り出し、そっちに尖る。

 

野球で、絶対の審判に暴言で、以降、不利になってしまう。。

どこまで “あらかじめ” 認知してるか、許容してるか。。

【#認知領域】= 今この瞬間の『わたし』。「許容する」「包含する」

 

「求めてる最中」は、ずっと「不足」してる。

それが自分の許容(「認知領域」)を超えると、「不安・問題」となる。

許容範囲内であれば、それは「他人ごと」と同じ。

 

「幸せ」も「不幸せ」もセットもん。

どちらかを無くしたいなんて、都合が良すぎる。。

「らーめん」+「チャーハンセット」。

 

「まともだなぁ」と思う(感じる?気付く?)ときがある。

そんな静かで穏やかで、どれくらい “在れる” か。。

 

「悟りがどうとか “言わない” 人」が悟ってる人

というのが今の結論。

 

聞かれもしないのに、悟りとは…とか言う奴、

ましてブログなんかに書いてる奴は、気を付けた方がいい。

 

「(!)気付く」っていうのは、姿勢に気付くでもいいんだ。。

「あ!猫背だなぁ。背筋と首に負荷かかってんな。。」

「あ!お尻の穴(*)が在る」でも。

何に気付くか、は何でもいい。「思考」「感情」「感覚」、、

 

とにかく気付き続ける。

「!!!、、」

 

そして気付いたそれらは、ぜーんぶ一律でクソ(💩)であると…気付く。

 

興味は自分の『在り方』のみ。

あとは反応。

それを観て楽しむ

「おっ!変わったぞ。」「変わんねぇなぁw」

 

頑張って『在り方』を維持しようとしてるのには、違和感を感じる。。

「こう在るべきだ」「こう考えるのだ」、、

不自然を感じる。。

【#○○(す)べき】~「やるべきこと」は『減らす』方向へ。。

 

「プロレス」は、私がこの世界を理解するのに分かり易いロールモデルだった。

【#プロレス】~この世界をどう観るか?

 

だれもが「苦痛」と「快楽」の原理から逃れられず苦しんでいる、、

【#認知領域】= 今この瞬間の『わたし』。「許容する」「包含する」

 

「自己中」なんて中途半端だ!

「 “超” 利己的」で在れ。

【#利己的】~「自分の問題」だけを解決してればいい。。

 

「認知量」が “最大” の『在り方』の条件は、

◆ 抱える「問題」が限りなく無い。

【#新しい問題解決法】~「問題」を「問題としなくなる」。相対的に。

◆ 今ここに在る。(「時間」が存在しない)

【#「時間」は存在しない】~『時間なんて無い』とした方が、辻褄が合うことが多いし、 なにより、自分にとって都合が良い。

◆ 認知が密である。

【#認知の密度】~「気付ける!」って素晴らしい!!

 

「努力」とか「集中」とは、結局何なのか?

【結論!】矢印の尖りの狭さ・密度

決して、「量」ではない。ベクトルではない。

 

「量」を意識するから消耗する・飽きるのが早い。

「量」に意識を注がない。注ぐのは、「行為」にのみ。

 

「結果なんか知らね」と同じ。

「結果」に意識を注がない。「今ここ」だけ。

 

「向き」を変えて、「尖らせる」だけ。

「意識」は矢印の頭。向きだけ、量はない。。

【#意識の向き】~(外)向きか(内)向きか、それが問題だ。

 

頭では論理的に理解してても、イラつくのはイラつく。

反応してしまう。

 

分かってない。

許容できてない。

【#認知領域】= 今この瞬間の『わたし』。「許容する」「包含する」

 

何のために「仕事」をするのか?

・「お金」のため
・「自分」のため
・「家族」のため
・「社会貢献」のため

、、、なんの “ため” でもない。。

「目的」は無い。『未来』が無い。「希望」も無い。

「今だけ」。。

 

「お金」「自分」「家族」「社会貢献」、、は、その「結果」。

「在りたい」ことの “延長線上” 。

【#理由は後付け】~自由意志なんて無い!?

 

「夢を実現させたい…」、、夢の「設定」が間違ってる

「現象」をコントロールできると思ってないか?

 

「現象」はコントロール出来ない。

自分の意志や願いだけで決まらない。

 

みんなほぼ同じこと思ってるよ。「幸せに…」

♪ みんなの願いは同時には叶わない

『誰かの願いが叶うころ』宇多田ヒカル

 

夢は、『どう在りたいか?』

『在り方』なら多少は影響を及ぼせる。多少は。。

 

「事象」を変えようとしてるの?バッカじゃねぇのw

「幸せ」になるために、、「○○をする(手に入れる)」、、

 

「幸せとは?」と考えてる人ほど、「幸せではない」という。。

「幸せ」が「問題」になっている。

 

「問題」は減らす・抱えない方へ。

「幸せかどうかは問題ではない。どっちでもいい。そこじゃない。」に変える。

すると「幸せになる」。あれぇ??

 

生きるより死ぬより上の欲。。

「夢中で在りたい」

 

夢中であるには、あらゆる「問題」は邪魔でしかない。

「争い」も…

 

だから分かってて負ける、振る舞うこともある。

許容する

 

ネットが繋がりにくくて、イライラする、、

あきらめよう。

 

「それは自分の問題じゃない」と気付けた。

さっさと認知を切り替える。「他にやるべきことは…?」

 

斎藤一人の、「あなたは “実力” でしょ」「私は “運” だから」

認知領域が拡がった。

「運」という要因が在るって許容したから。

【#認知領域】= 今この瞬間の『わたし』。「許容する」「包含する」

 

「問題」を抱えてないから、その分、意識が(自動・無意識に)割かれず、

認知することができるようになる。

 

あらゆること(現象)を利用して、瞑想できる。

Twitter、YouTubeなどの、仮想でも。

自分の反応を観て、それをどう変えることができるか、シミュレーションできる。

 

「認知領域」は “無限大” に拡大可能だし、「わたし」は “無限小” に狭めることができる。

ここに「自由」がある。

 

「ことばの定義」なんていうのは、無理やり納得したいが為の「仮設定」

「ことば」がほんとうに何かを表すことなどできない。

 

「瞑想」でぜんぶ分かってしまう。というのは、、

学問など、知識の積上げでは、ヌケモレが発生する。

「瞑想」ならば、まるっとヌケモレ・盲点なく「分かる」ことができる。

 

「論理・理屈」で理解するのは、「細分化」

「瞑想」は逆で、「抽象化」。情報量は極限まで少なくなる。

 

なによりも、まず「分かってないと」、「理解できない」というのがある。

 

「はじめに言葉あり」というのが西洋の世界観の起点なんだ…

最初から区切られていて、独立した確固たる「わたし」が在る。「わたし」だけじゃなく、世界の、あらゆるものすべて…

 

そういう前提、設定がありき、なんだ…

 

認知に制限が掛けられている

「日本を出て海外に住んだ人」を見てて、「発想が豊かだなぁ」と思うのは、「認知領域」が拡がったんだと思う。

 

これをその場にいて可能にするのが「瞑想」。

認知するものを全部否定して、その外に出る…

 

「さとり」を超える。

成りたいのは、「静かに座って、じっとしてること」ではない。

「活力・エネルギー」が欲しいのだ。

 

「さとり」も無数の『在り方』の一つ。

脳の「わたし」と感じる部位が弱まった状態。

 

いづれこのブログも収束していく…

どんどん抽象度が上がっていき、「意識」とか「認知」とか、「そんなんじゃない!」って気付くときが来る。

 

「呼吸」で「認知を密」にする

どれだけ、細く長く、吸う・吐くできるか。。

ヌケモレ無く、丁寧に。

【#認知の密度】~「気付ける!」って素晴らしい!!

 

将来のことを考えて「運動」するなんてことは絶対にしない。

明日、死ぬかもしれないのに。。( ̄m ̄〃)ぷぷっ!

 

なんかもう体を動かしたくてしょうがなくなるとか、

「うぉおおお!」っていう感情が味わいたくなったら、「運動」するんだ。

 

今しかない。未来なんか無い。

 

たとえば、身長が小さい人が、プロのバレーボール選手に “成りたい” とは思わない。

その欲求が起こらない。

認知に入ってない。

 

それは、自分で決めたのか?自動なのか?

 

ブログに書いてることは、何か「結果」が現れたかと言われたら、、何もww

でも大抵のことはそうで、「なんかこの先(可能性が)あるぞ。。続けてみよう」と思うわけで、、

先に「なんか有る!」と思うから、やる気になるわけで、、

 

誰かに与えられた仕事では、「ほんとうのやる気」は出ないわけで、、

たとえ、間違っていても、修正して、方向を見直す、、大体のことはそうやってるわけで、、

欲求の方を大切にしたいわけで、、

 

で、結果、 “どこか” に収束していく。。

 

「30代はこうしろ」とか、そういう「個別具体の情報」はもう見ない

個々人みんな違うから。

「わたし」はどうか?だけを見れば良い。

 

自分が「ミス」を犯すのも “許容済み” だし、「失敗」するのも “分かっている” 。

いざ「現象」が現れても、「ほぅらね♪」

「1勝9敗でも勝つ!」

 

「知る(理解する)」と「分かる」

「知る」と、どんどん「矛盾」が発生する。「問題」にもなり得る。

「分かる」は、「矛盾」があってもかまわない。「矛盾」をも「許容」してる。

知ってるだけでは、変わらない。分かってるから、自分に影響を及ばす。

 

✘「こういう風に考えたらいいですよ~」

「考え方」では変わらない。。

 

心を管理・操作できるとしたら、心を許容・包含してないとムリだ。

巻き込まれていたら、とても出来ない。。

 

何を読んでも、聞いても、変わらないのは、、つまりそういうこと。

「知る」・「理解」ではムリなんだ、、

「起きたこと」が正しい。

 

「許容してる。」っていう感覚は、「犬」などの飼ってる動物に例えると、

バカ犬でも、可愛い♡

うちのオス猫は、粗相しても、、可愛い♡

 

何をしても、しなくても、『ただ在る』ことで全部まるっとOK。

 

世界中のすべてがそうであると認知したなら。。

【#認知領域】= 今この瞬間の『わたし』。「許容する」「包含する」

 

「誰々が言ってた」「何々に書いてあった」「科学的に、、、」、、、

もはや「自分の実感」ですらない。。

「それって “あなたの感想” ですよね」よりひどいなぁ。。

「わたし」をないがしろにして、何を「認知」してるのか。。

「科学的」って何なん?なんで100%じゃないんだ?!

 

デジタル脳の人はヌケモレが多そう。。

自分もそっち傾向?傾倒していたけど、コンピューターの性能が “低かった” ので、処理できず、途中で

気付けて良かった。

頭は足りないけど、、「不足は無い」

 

「命」よりも、「世間体」よりも、もっと大切なことが在る。

「ワケワカランモン」を上に置く。

 

「認知」のある方へ行く

思い付く方へ。

【#認知の密度】~「気付ける!」って素晴らしい!!

 

「競争世界」から出るというのは、『縁』を遠ざけること。

【#競争世界】~「生き方」の選択

 

「寂しい」も “相対的” なもの

何かと比べてる

自動の反応

 

すべての認知と無関係になる

 

最近思うのは、「夢中で在りたい」→『自在で在りたい』

夢中にもなれるし、いつでも解除して離れることもできる

どっちでもいい…

 

「夢中」の “数珠つなぎ”

夢中であったら、「認知が密」になるので、「今ここ」の情報を得てしまう。

 

「盲点」がない。「ヌケモレ」がない。

満ちる。

 

新たな、扱うべきものも発見してしまう。

ずっと、「縁」が繋がる。

 

ある程度、経験(データ)積んだら切り替えないと…

思考→思い付く(抽象度を上げる)

社会的にも「監理・指導的立場」になるように。

「競争世界」からの脱出?

 

「行動」についても、分別しない

優劣・批評、批判・比較、、

「これはどうかな。。」「こんなんじゃダメだろう。。」と躊躇してたら、それは「分別」してる。

 

“慣れない” 「空間・場」に居るとき、「安心・安全」が失われる。

宇宙空間まるごと「認知領域」で包み込みたい…

 

「矛盾」というのは、「人間が “設定” した世界観」から “ハミ出た現象” のことを言う

 

「旅行」に行きたくなるのも、「認知」を満たすため

「盲点」が無くなったら、この世界も無くなる。まったく動かなくなる。

 

「認知領域」は、『縁』を繋ぐことか?

何かを「知る」ことで。

ピンポイント(キリトリ)過ぎて、ヌケモレが発生する。満たせない。

物理的な「体験による体感」でも、限りがある。

その場に実際に行ったとしても、すべての「盲点」は満たせない。

 

カント「人間はモノには到達できない」

 

情報的に「!」許容・包含するしかない。

 

「抱えてる問題が多すぎる」というのは、

「認知領域内」の「盲点」が、認知領域に対して大きすぎること。

 

「認知領域」が狭くても、「盲点」が無いなら、「安心・安全」でいれる。

逆に、「認知領域」が広くても、「盲点」だらけなら、「不安」でいっぱい。

 

ヌケモレ無く、「わたし」の周りから丁寧に埋めていく。

【#認知領域】= 今この瞬間の『わたし』。「許容する」「包含する」

【#認知の盲点】~消すことはできない。必ず付いて回る(恐怖)

 

「一番抽象度の高い概念」を一つ知ったら、もう探さなくてよくなる。

それが「わたし」

以下、もうぜんぶ分かった!ってなる、、ハズ。。

【#わたし・自我】~これを解決しないで、いつやるのか?

 

バラバラに認知したことを【瞑想日記】にぶっ込んでいるが、

後から「点」と「点」が「繋がる感覚」が面白いし、快感!

 

やれるときにガッーっとやって、ダメなときは瞑想なりして、取り扱わない

何をしてもダメ。あきらめる。

 

「比較対象」を認知しない。

「認知領域」から外して、「他人ごと」にする。

【#観る】~「他人ごと」なのか、「自分ごと」なのか。。

 

それは私の問題じゃない アシュリー

 

繊細な人は、「認知領域」が広いから辛くなるのかなぁ…

気付いてしまうから…

「人見知り」も、「認知の盲点」があるから「恐い」、、

 

でもそれも「偏った認知」。

あるいは、「抜け洩れ」がある。

広く、偏った認知。ぽっかりと大きな「ヌケモレ」。

【#読書】~「抜け・漏れ」が出ないよう、ゆっくり読む

 

ほんとうに “分かっている” なら、「現象」に現れるはずだ。

『在り方』が変わって、「認知」が変わって、その中から「選択」し、「行動」に現れる。

【#『在り方』(在りよう)】~「価値観」であり、「判断基準」であり、「認知のフィルター」であり、「マインド」であり…

 

一時の気休めが価値にあると…

「頑張れば何でも…」

「願えば叶う」

理でもないのに…

 

だから偏って、また振り戻される。巻き込まれてる。

 

この人は悟ってる、あの人は悟ってない…

発する「言葉」は、「偏った認知」。

「言葉」や「行動」は『記号』。その “裏” を観れるか?

 

本当に悟ってる人は、悟りとか、スピリチュアルとか、神とか、…そんなことを “発しない” 。

「問題」とすら認知してない。

 

認知してないとは、ちょっと違うか…

 

“悟りが在る” ことは分かってるけど、そんなことが箸にも棒にも掛からない。

人から言われて、「あー、そんなのもあったね」

 

だから、「このブログは妄想です」という立場を崩さない。悟っていたいから。

 

カチカチ山か?

価値価値価値価値、うるせぇw

カチカチ山か?

 

そんなの無い

「価値とは何か…」

 

ずっと人生それに振り回されて終わるw

「結局、価値とは何だったのか?」って。

 

死ぬ間際に、「価値とは〇〇だ!」となったとしても、

「それはあなたの感想ですよねぇ」で終わりだ。

そして死んだら価値も無くなる。きれいサッパリ。後生大事に温めてきた価値が…

 

ほとんどの場合は、一生気付けない、一生抜けれない、んだろうなぁ。。

巻き込まれてしまっては。。

【#認知の密度】~「気付ける!」って素晴らしい!!

 

“自分では抗えない” 大きな「流れ」がきたときのために、鍛えてるのだ。

ぐったり動けなくなる気象病であったり、、

そのとき、どう苦しみと向き合えるか。

 

なにができて、なにができないのか。

できることなんてあるのか?

本当に大事なときのために、、、自己訓練。

 

必要があれば現れる。

「認知が密」で在れば、気付く。

元々在ったことに。

出会えば、現れた瞬間気付く。

 

必要ならばお呼びが掛かる

ほんとうに力があるのなら。

 

止まって待つ。

認知がブレないように。

 

自分が取り扱うべき問題だけに尖ってさえいればいい。

分散しない。

【#認知の密度】~「気付ける!」って素晴らしい!!

 

とにかく「軽く」なる方へ。

そしたらエネルギーが湧いてくる。欲求が出てくる。

【#ほんとうの欲求】~どう『在りたい』か。。。

 

「正しく伝えよう。。」は無理!

そもそも「正しい」って何?

偏って、偏って、尖ったのが「正しい」だ。

無理やりそれっぽく理屈を “こじつけた” もの。

 

「時間」とか、「神」とか、、「ナンカワケワカランモン」を「コレだ!」と言ってるのは、

脳。

脳がムズムズして、「( ,,`・ω・´)ンンン?コレ!」って、創り出してる。

【#脳の機能】~「思考」は「わたし」ではない。。

 

「夢中で在りさえすればいい」を、実践して、ほんとうに分かったら、

もう「安心・安全」は手に入ってる。

【#安心・安全が土台】~『安心・安全』だけを抱えて生きていく。

ブレることはない。

 

「興味をもつ」ほど “傷付く” 、、、?

「現象」が、「自分ごと」になってしまうから。

そのとき「意識は(外)向き」だったはず。

【#観る】~「他人ごと」なのか、「自分ごと」なのか。。

 

「幸せ」に興味をもってる時点で、「不幸せ」から逃れられない。

“セットもん” だから。。

「幸せ」を “認知した瞬間” 、「不幸せ」が生まれる。

どうやってもくっ付いて離れない w

 

「小せぇ、ちいせぇ、自分」最高!

「わたし」は無限小の点「・」が良い。

【#わたし・自我】~これを解決しないで、いつやるのか?

 

どうやってクソな「競争世界」の外側にいれるか…

ずっとあった、競争 “させられている”感。

ポジションどり

【#競争世界】~「生き方」の選択

 

生活も行動も、食べるものも、着るものも、そっちに合わせていく

生き方、『在り方』の選択。

 

「健康でありたい」…これもまた “無理な願い” だと分かった。

コレを「願い」や「目標」にすることの無意味さ…

「健康」なんて “問題にしない” 。その上の概念が必要だ。

 

健康じゃなくても、『夢中で在りたい』

 

病気で苦しんでいるなら、それに夢中でありさえすればいい。

どうやったら苦しみと対峙できるかに。

退治しようとしたら、完全に飲み込まれる。

 

すべて「不調」を自分が解消できると思うな

もっと大きな要因がある

 

「体の不調」を、自分で解決出来る?

自分だけが要因ではない。

待つしかない。

 

待つ間、「飲み込まれる」か、「手放す」かは、自分で「選択」できる。

 

「低気圧」で、心身共につらい、、、こんなときは、低気圧と向き合おう。

どうやってこのときの『在り方』を変えることができるか。。

 

辛い辛いと、問題に巻き込まれるのではなく、

低気圧という、「途方もなく大きな現象」は、「わたし」など手に負えない。

普通は “やり過ごす” しかない、、

 

この問題を問題としなくなるには、、

感覚と「わたし」を切り離すチャンス!到来。

 

「抗えない大きななにか」でさえも “影響を及ぼせない” のが、無限小の「わたし」

 

すべてのことと無関係で在る「わたし」

無限小の点である「わたし」から離れたときに、「苦しみ・問題」が発生する。

 

「やり方・方法」は、「誰がやるのか?」という視点が抜けている。

やるのはいつだって「わたし」だ。

ここを無視するから、、

【#わたし・自我】~これを解決しないで、いつやるのか?

 

「わたしは無い」というのも、後付けの理由で、

そう思ってしまうのは、”分別が無くなった脳” の生み出した物語。

 

すべての「認知」は、 “屁” 理屈

【#理由は後付け】~自由意志なんて無い!?

 

このブログも「言葉遊び」…プロレス。。のようなもの。。

人生は、「。。のようなもの。。のようなもの。。のようなもの。。∞」

 

世界のナベアツのような、発想を得たいなら、

世界のナベアツをどんなに分析しても成れない。

自分もバカに成ってみないと…

「3の倍数」だけでなく、「1」も「2」も、「1.00001、、、」も。。ぜんぶだ。

 

瞑想を始めてすぐは、「つまんない認知」しかしない。

後になって、「ちいせぇなぁ」と分かるけど、そのときには、とてもそんなふうに思えない…

 

一つ一つ丁寧に「それは今要らない。それも要らない…」と捨てていくと、

意識は、「コレはどうだ?コレならどうだ?…」と次から次へと…「捨てては現れ、捨てては現れ」、、

そうやって段々、自分にとって、より「重要な認知」へ迫っていく。

 

最後に来るのが、「なぁんだ、ぜんぶどーでもいいんだ。」だった。

 

すぐに効果出る…は無理なんだ。。

脳の可塑性的に…

【#脳の可塑性】~ゆっくりと、知らないあいだに、、

 

瞑想って、映画館で「映画を観ること」に似てる

観てるときは、「安心・安全」だから楽しめる。

映画館を出ると、少しづつ現実を感じて、日常に戻ってしまう。。

 

“自分で自分を” 「否定」できるか?

≒「認知の否定」が可能か?

認知は「脳が創り出す物語」。

 

「否定」する→結果、「認知領域」が拡がる。

【#認知領域】= 今この瞬間の『わたし』。「許容する」「包含する」

 

…そんなことより、「安心・安全」で在ること。それだけでもういいじゃないか。

 

腹が満たされると、「ほんとうの欲求」まで満たされていると、勘違いしてしまう。

「ほんとうの欲求」は、そこには無い。もっとずっと奥の奥だ。

【#ほんとうの欲求】~どう『在りたい』か。。。

 

動物はなぜ、毎回「同じこと」で喜べるのか?

「今ここ」しかないからだ。

「過去」も「未来」も「比較対象」が無いからだ!

【#分別】~「比較」・「判断」・「優劣」、、してしまう。。

 

「安心・安全」な立場・状況だから、こんなこと言ってられるのだ。

自分が「問題」に巻き込まれたら、途端に「意識」は持っていかれるだろう。。より強い “刺激” の方に。

 

 “何か” を「信じる」ことしか出来ない。。悲しいかな。。

だって、分かるまでは、分からないんだもん。。

 

何を信じるか?

「 “自分” にとって “都合のいい” 理屈」しか信じられない。

 

人間は、そういう風になってる。

だから「プロレス」だって言ってる。

【#プロレス】~この世界をどう観るか?

 

人と対峙するときも、「認知領域」を広く保って、許容する。

同調?して、その人も気を緩めてくれる。

 

脳の「観察する」部位さえ生きてればいいんだ。。。

「意識的に在る」とは、「観察するもの(対象)」を「選択」できる状態

【#脳の機能】~「思考」は「わたし」ではない。。

 

自分の「身体」を知る≒「脳」を知る

どこか「身体」を “動かせ” ば、「脳」のどこかが反応してるはず。

どこか「身体」で “感じれ” ば、「脳」のどこかが、、、

 

「抵抗・反発」、その方向は、どのみちドン詰まる。

「抵抗・反発」が自分に起きたら即、気付いて、止めよう。

いたずらに刺激したら、より大きくなる。

 

「包含・許容」の道筋が見えるのを待て。

いつ来るか分からない。。「認知を密」にして、カウンターに備えろ。

「抱き参らせて」やれ。

 

教祖が辛いのは、「間違っていました」と言えないことだなぁ、、

逆に言えば、それが言えないのが、、それが教祖だ!

 

「考える」なんてどこにも無い

「何を考えるか」を “思い付き” 、

一見「考えてる」ようで、『選択肢』を “思い付いてる” 。

そこから『選択』してる。

 

どこに「考える」があった?

『思い付い』て、『選択』してるだけ。

【#因果が逆】~『在り方』→「認知」→「選択」→「言動」の順。

 

ただ「在る」という “喜び” にまで持っていきたいな。。

「欲求」も、ただ「生きる」にまで削ぎ落したい。

 

瞑想で、「満たされた」感が無いと、違う方向にいってるかも。。

「軽い」とかでもいい。

 

要は、瞑想前よりも、エネルギーが使える状態。

 

エネルギーが “補充された” というよりも、”元々あった” ものが、「開放された」・「いつでも開放できる状態」になった。

 

「うつ病」とは何か?どうすれば「うつ病」を、、

これではどんどん「うつ病」の存在を “強化” している。

「手放す」・「認知から外」さないと。

 

問題に「抵抗」すると、 “より大きくなる” のと同じこと。

「戦争」が “無くならない” のと一緒。

【#新しい問題解決法】~「問題」を「問題としなくなる」。相対的に。

 

「知識…論理や理屈」では到達できない、永遠に。。

「理解」では、「!」には到達できない。

【#「さとり」は一瞬】~「!」「!」「!」、、、「気付き」の連続。

 

「結果」から “しか” 分からない。。

この世界を理解するには…

 

「行動」を観てたら遅すぎる

もっとずっと手前の、自分の「思考・感情・感覚」を観るしかない。

 

「現象」に対して「どう反応したか」を。

認知を密にして。。

 

自分以外のことは分からない。

『起きたことが正しい』

 

ぬくぬくとした布団にいると、なかなか抜けられなくなる。。

そこには、絶対「安心・安全」がある(と思っている)から。

 

でもずっとは居られないのは、「脳の機能」。

「このままじゃいけない。。なんとかしなきゃ。。」と思う。

 

それすらも、 “脳が認知させた” こと。

いろんな「認知の一つ」と “なんら変わらない” 。

 

なんとかしてもいいし、しなくてもいい。どっちでもいい。

そしたら軽くなって、抜け出せる。。

 

俯瞰して観れると、気を付けたいのは、「偉そうな態度」になること。

どうしても “上から観てる” という感覚がぬぐえない。。

 

態度に気付いて、振舞いたい。

「正論」ばかり言う奴は “ムカつく” のだ。

 

※「観想」の注意点は、ここ(【#観る】~「他人ごと」なのか、「自分ごと」なのか。。)にも書いた。

 

 

以下、OLD ↓↓↓

 

なんで「矛盾」は有るのに、「ワダカマリ」が無いのか?

過去に言った発言は、そのときの「わたし」が言ったこと。

「わたし」も刻々と変化してる。今この瞬間にも。

変わらないと思ってるのは、幻想。脳がそう思いたい。

 

変化は、いきなりひとっ飛びで到達してしまっては、「抜け・漏れ」が発生してしまう。

「認知の盲点」を埋めているから、「これでいい」と思えるのだ。

 

「認知領域」を広げるために、「安心・安全」であることを認知するために、、、

「コーヒー」が無いとダメな身体になってしまったみたい。。

結局、「認知」は「脳の機能」。

人間も虫もロボットも同じ。。ただ「反応」してるだけ。

 

「振る舞い」は大事。

大泉洋、、、

好きな俳優が好きなのは、

その「言動」が自分の「求めてるもの」と “近い” から。

 

自分ごととしてみると。。

「今自分と縁あって周りにいる人たち」(普段、認知している範囲「認知領域)。

その人達の「ニーズ」と、自分の「こう在りたい」という「欲求」

 

その『緊張・拮抗』点がどこなのか、探るゲーム。

『緊張・拮抗』点が分かって、それが「振る舞えた」ら、楽に生活できる。

 

あとは、その『緊張・拮抗』点を、自分の「ほんとうの欲求」に近づけていくゲーム。

ザックリ言うと、「イメージ」を変える、だ。

 

F1ドライバーは活きてる!

「極限」の状況

「思考」なんかしてられない

 

「反応」に任せる!

 

具体的に何をやるかの前に、「ナンカワケワカラン」けども、

どうしてもコレがやりたい!という欲求を示せ。

 

意識を泳がせる

留まろうとする意識を、一処に留まらせない。

気付くと止まる。一瞬でどこか他に向く。

気付きの連続

 

向くままに委ねる

思考に向いたり、感覚に向いたり、感情に向いたり…

 

一つの「不快」に引っ張られる「意識」

身体の一部が痛いと、、、「感情」まで引っ張られる。「思考」もそういう発想になる。

 

切り離せ。

 

「さとってる」か、あるいは、「認知から完全に外してる」か。

「分かってやってる」か、「分からないで飲み込まれてる」か。

 

「論理や理屈」の最期は、、、

「分かりません」と降参する・「負けを認める」か、話題を変えて「逃げる」かのどちらか。

 

「論理や理屈」が「破綻(矛盾を含む)」するのは、もう「ソクラテス」さんが証明してた。。

 

気づき続けると「!!!、、」、同じところに到達する。。

たぶん。。

 

“さとり” をこじらせると、生きにくくなる。。

 

「夢」も「希望」も無ぇ。。「未来」も無い。。

「過去」も無い。

 

だから「絶望」も無い。

軽い、軽いわぁ~

 

知識を入れれば入れるほど、矛盾が生じてくる

その対応に追われて、人生終わる。。

 

実質、何を「選択」できるのか?

「現象」とか、、、自分でぜんぶ選べるか?

「反応」、、、何か「現象」に反応してしまう。。

 

「反応」に対して、「止める」「観る」、、、これなら自分で「選択」出来る。

ここに「自由」がある。

#止まる)(#観る

 

高い「自己評価」、、、そっちじゃない。合わせに行くのは。 #世界の広さ(狭さ)

「理」

 

「漢方」も「神社」も「呪い」とかも、、、同じ原理か?

長い年月をかけて創られた「集団意識」。。

「ナンカワケワカランモン」

 

“じわじわ” と成長するのが良い

「抜け・漏れ」が無い。

 

「許容癖」みたいなものが付いてきた!? #比較・判断・分別

どうしても誰かと「比較」してしまう。

あのYouTuber は、楽しそうだなぁ。それに比べてオレは…

 

でも瞬時に気づく「( ゚д゚)ハッ!」

いや、「どっちでもいい…」「今、楽しいかどうか。」「問題はそこじゃねぇ」、と。

 

今この瞬間がどんな状況だろうと。。

 

「認知から “一時” 外す」のではなく、

「抵抗」するのでもなく、

『許容』する。

軽くなる。いい感じ。

 

「振舞える」うちはまだ大丈夫。

元気を装う。

愛想笑いをする。

 

まだ「K.O」じゃない。

 

「瞑想」 “止め” たら、また「迷走」する。

戻る。

だから “悟っても” “死ぬまで” 「瞑想」続ける

 

「再現性」があるのも瞑想。

今まで何人もの人が悟ったとされてる

 

日々のニュース。新しいと思いがちだが…  #新しい問題解決法

実は新しくない。

「抽象度」上げたら。

 

ほぼほぼ「 “既出” の情報」だと気付く。

「毎日毎日おんなじニュースだなぁ」

 

もう “自分ごと” として取り扱わない。

 

「ミステリー小説」は「トリック」や「犯人」が分かったら、 “もう一度読みたい” とは思わない。

 

認知の盲点を埋めるには、何が必要か? #認知の盲点

自分と自分以外?情報?

 

カラクリが分かると楽しい〜♫

楽しいっていうのは「認知領域」が拡がった。

と同時に別の「盲点」ができた。

 

「認知を密」にして世の中のカラクリを暴くの楽しい

なんでアイツはあんな仕草をしたのか?

 

知識じゃなく、自分で「!」気付くのは快感だ。

知識はない方が、快楽は大きい。

相対的に。

 

マジックと同じで、一度カラクリを知ったら、もう一度体験したいと思わない。

驚いては見せるけど、内心「はい、またこれね~(^_^;)」

次の新しい体験を欲してしまう。。

 

“意識的に変えた” のは「向き」。(外)から(内)へ。 #意識の向き

「価値観」が変わった。

「何を認知するか」変わったので、「選択」、「行動」が変わった。

 

「理」に沿うように。。「理」に逆らわないように。。

 

ほんとうに美味しいから食べてるのか? #認知の密度

“頭” が「コレは美味しい “はず” 」と思ってないか?

 

味わう、喉ごし含めて。

日本人なら当たり前にやってきたこと。

 

それが『「 “頭の” 欲求」なのかどうか?』が問題だ。 #ほんとうの欲求

ドーパミンとかセロトニンとか、、、

 

そんなこと言ってるお前は「認知が密」なのか?って言われると、

そうではないです、残念ながら…

私よりもよっぽど密な人は多いと思う。

 

でも、だからこそ気付けた。そこが「問題」だってことに。

自分が「鈍感」だから。

 

自分が表立って出てったら、説得力ないだろうな。。

 

それほどドンちゃん。。

❌火薬田ドン

○パチスロどんちゃん

 

「不足」は自分で「選択」する。もしくは「つくる」。あるいは「気付く」。

誰かに「不足」を押し付けられてないか。。

 

「不足」は推進力の源。

誰の手にも渡しちゃいけない。

 

「危機的状況」になると頭が働く

○○(ネット)銀行トラブルる?!

通知が来る→パニクる

 

認知領域は狭まる

思考が回転する

 

「!」何と何を確認すれば良い。→確認する→「あーそういうことか。。」→解決。

 

履歴書に、「特技・必殺技」は、「『在り方』を変幻自在に。」と書いてみたい。。

苦しみや問題を一瞬にして消し去ってしまえますぅ。。

 

どんな『在りよう』が良いか。それすら「状況・環境」に “も” よる。

瞑想でいろいろ試してみるといい。

いろんな『在り方』があるんだと気付く。知っておく。

 

いろんな「わたし」があることを。

そもそも良いも悪いもないのだが。。

 

状況がどうであれ、『在り方』は変えない。変えたくない。。

 

日々の「移り変わるニュース」よりも、「永遠不変(?)の情報」で「認知」を満たす。

「移り変わるニュース」は、一つのデータとして、それに “翻弄される” 意味はない。

積み重なれば、「答」は出る。

 

だけど、その答えは “既に出てる” 。(#理由は後付け

「永遠不変の情報」に。

 

「激流スライダー」は “たまに” 「遊び」でやるのはいいが、

大きな川の流れに身を委ね、要所要所で「ポジションチェンジ」した方が、楽。

激流スライダーの方が、「やった感」はある。人にも示せる。

 

後者は、その人達から見たら、ただ「ぼぅーっと」してるようにしか見えない。

その「#偏り」を観てる。

 

「ポジション」が大事。「”観れる” ところ」に居る、在る。

 

じぶんの思考・感情・感覚・行動…全部観察対象になると、

おもしれぇー

 

次に何をするのか、どんな認知が降ってくるのか、楽しみ。

 

日常は「テスト」。

瞑想で負荷をかけて培った「いち早く思考の起点に気付く」力を試すとき。

 

どこに負荷をかけるか。。

「苦しみ・問題」を抱えてるときの、あの嫌ーな「感じ・感覚」

「感じ・感覚」は相対的なもの。

 

日常の「苦しみ・問題」よりも強、、、そんなの絶対無理!

そこじゃない!

 

普段は、現象に対して反応する。「反応」するのはしょうがない。

でも、「思考」は止めれる。

 

思考にいち早く気付けるように、、、無限小の段階で「思考の起点」に気付けるように。←ここに負荷をかける。

 

必要なときに「思考」は勝手にしてしまう。

ピンチの時とか。

 

っていうか、それ以外にちゃんと「思考」は働かない。

そうなったら勝手に頭は働く。自動で。反応。

 

結局、「環境・状況」に左右されるものなんだなぁ。。

 

どんだけ「認知を密」にすればいいのか?

日常ではなかなか体験することがないほど。

「負荷」をかけるのだから。

 

自分の「感覚を繊細に感じるため」には、「健康」大事だな。。 #認知の密度

健康はあくまで “2次的” 。

 

“1” は「欲求」。「感覚を繊細に感じたい」という。

 

寝起きの認知。

「無意識」状態から「意識」状態へ。

「さわやか」なのか「どんより」なのか。

 

目覚めて(意識が戻って)まず、「思考」を認知するのか?身体などの「感覚」を認知するのか?いきなり「感情」を認知するのか?複合的なのか?

 

どれかいきなり「不快」を感じたら、「どんより」気分。

「快」を感じたら、「さわやか」気分。

 

選べない。

 

「この世界は幻想だ」というのも「幻想」

認知はすべて「幻想」

 

脳の回路ができて、そういう風に思ってしまうだけ。

 

そこを目指すのではない。

「幻想かどうかはどーでもいい。くっだらね」へ向かう。

 

みんな必死で生きてるんだ。。

「ブラフマン(?)」とか、「ノンデュアリティ(?)」だとか、、、どんどん細分化していく。。

「独自ブランド」を構築しようと必死なんだ。

現す・表す。

 

♪ 見たいものと 見せたいものばかり

『生きる』ザ・クロマニヨンズ

 

みんな必死で生きてるんだ。。

そこを観る。

 

「 “悟りたい” 人」がいれば、「 “そんなの嫌だ”・ “気持ち悪い” と思う人」も必ずいる

「悟り」を “認知した瞬間” 、 “同時に” 「悟ってない」が現れる

 

「悟った・悟ってない」なんて言ってるうちは、、、どっちもまだ “同じところ” に居る

 

ナレーションで瞑想できるのは、上級者だけ。

「くだらね」の一言で、すぐに「わたし」と「音(感覚)」を切り離せるから。

 

調子に乗って “負荷をかけ過ぎ” たら「反動」が来るのは、「筋トレ」も、

「瞑想」も同じ。

偏り過ぎだ。

 

「背骨を感じる」感覚を繊細にする。

忘れてたw

 

「身体的な感覚の繊細さ」と、「情報的な認知の密度」は相関関係あり。。

 

こんなに「静か」で、こんなに「暖かく」て、こんなに「満たされた」感じで居れるのは、 #一人

一人でいるしかアリエナイ。

 

今のままの自分を受け入れてもらえないのは辛い。

まず自分が受け入れろ。そっからだ。

 

人生で「やりたいこと」は、、、? #ほんとうの欲求

「サーフィン🏄」やってたいとか、

「山🏔で静かに暮らしたい」とか、

「商売💰してたい」とか、、、

 

すでに “悟ってる人” がやれること。

 

それらは “自分にとって” 、2次的、3次的なこと。

自分はまだその段階には居ない。。

 

まだ「 “私が” 取り扱うべき問題」じゃない。

 

とにかく今は、どうすれば「安心・安全」で在れるか?に向き合おう。

糸口は「認知の密度」だ。

 

今まで「無し🍐」だったことが「有り🐜」に変わる #瞑想日記

逆は無い。

可能性は拡がる一方。

 

絶望などアリエナイ。

 

何か言ってるようで、何も言ってない。。『それはなにかとたずねたら』

ほんとうは “そう” でしかない。

 

「何か言ってる」時点で、どこかに「偏っている」。その発言は歪んでいる。

 

「主張」するよりも前、「ことばを発する」よりずっと前、「思考が起きる」手前で既に「偏って」いた。

 

♪ きっぱりきめたような こまりはてたような そこらのくさのような まざったにんげん

『それはなにかとたずねたら』奥田民生

 

喋れば喋るほど、言い訳が必要になってくるww

矛盾をこじらすから。

でも、高尚 “そう” なものに人は惹きつけられる

 

ホントはたった一つ、『「わたし」なんか無い』で、ぜんぶ瓦解するのに…

 

「良いことば、悪いことば」、、、?

良いも悪いも、、、

そもそも「ことば」に影響されてる時点で、良くない。

 

「ことば」になったときは、もうだいぶ後の方。遅い。

もっとずっと手前の無限小の段階で気付かないと。。

【#因果が逆】~『在り方』→「認知」→「選択」→「行動」の順。

 

そもそもその程度の「認知の網目」で知識を学ぼうとしたり、何か経験しようとしたりしても、#認知の密度

多くの情報を取り逃がしている。

 

“さとり” は「UFOや宇宙人」・「神」より、 “実在してる感” は強い

 

「価値」なんて「感覚」。変わるもの。

「ウンコ💩」に価値はないか?

ある。

 

子供に「💩」って言えば、それだけで笑ってくれる。

「笑い」って価値。

 

高尚なものだけが「価値」ではない。誰かに思い込まされてないか?

 

何が言いたいかって言うと…

このブログで💩が出てきたら、笑って欲しい。それだけ。

 

どの立場で言ってるかで、「 “同じ” 言葉」でも、

「捉え方」は “変わる”

 

俺は毎日何をしてる?

無限小で「!」(気付ける)ように負荷をかけている

筋トレと一緒。

普段から重いものを扱ってたら、日常の負荷などは相対的に “なんともない” 。

 

この自信…

「気になってしまう」のは、訓練してないからだ。

 

SNSの表題見ても、反応しなくなった。

自分とは無関係、「縁」のないことだと一瞬で判断できる。

「意図」や「結末」、それを読んで「自分がどうなるか」が、パッと分かるようになった。

 

常になんか探してる。。

「なんか楽しいことないか?」

「なんかもっと有益な情報はないか?」

 

お前は「ナマハゲ」か?

「悪い子はいねぇか〜」

12月31日、秋田県の “専売特許” だ。邪魔するなw

 

もし誰かに「瞑想」を教えるとしたら…

全部言っちゃダメ。

 

たとえば、「思考の起点を捉えようとする」ときに、

「呼吸がほぼ止まるほど “息を潜めていた” 」と、後から気付く「!」。

「今ここ」に在るときの呼吸ってこうなのかなぁ?とか、、、

“自分で” 気付かなければならない。

 

大事なのは、「何を認知するか」ではない。

正しい・正しくない、は無い。

なんだっていい。

認知したことに捉われない。

『「!」気付く』ことが、『認知が密』になることが大切。

 

このブログも、自分を肯定することしか言ってねぇ… #脳の機能

結局、「認知」は「自分」を “否定できない” 。。脳の機能。

「認知」に捉われるアホらしさ。。

 

政治・経済・事故・事件、いわゆるニュース的なことにいちいちとやかく言うことはない。 #自分の問題

自分ごとではない、『縁』が遠いから。

問題を抱えない。

 

だけど、それが「自分ごと」になった瞬間、全力で対抗するだろう。。『縁』が繋がったのだから。。

「自分が取り扱うべき問題」に “変わった” のだ。

 

【◎朗報】今日は珍しく冬場の束の間の晴れ間、快晴☀。河川敷の整備されたウォーキングコースを1時間半歩く。心身ともに回復する。

【✘悲報】帰宅し、疲れて即仮眠。起床後、全身重ダルで、メンタルも沈む。

 

「上がったものは下がる」が理。

身を以て体感す。

 

『在り方』とは、心だけではない…

まだ「感覚」と「わたし」を切り離せてない。

 

睡眠不足だと、認知もそうだけど、

意識的に居ることが難しい

 

ゴルフも、「分かった!」と今日思っても、

次の日には、「あれ〜?」

 

「筋肉」<「認知」

筋トレの意味って、、、

 

どんな「認知」も、人それぞれ(自分も含む)で、取り扱う必要などない。

「ことば」になった時点でもうそれは、正確ではない。

(たとえ猫を可愛がろうが、食べようが、、、)

 

でも、それを「 “分かって” やってる」のか、「 “分からない” でやってる」のか、この差は大きい。

「人間(観れる)」か「虫(反応のみ)」か。。

 

勝ち負けの上にいたい。一人で w

天上界からお茶飲みながら、ニヤニヤと下界のいざこざを眺めてる…

時々降りて参加する。

 

「世界はことばによってできている」、、、?

んなこたぁない。

人間以外、ことばを持たないのに存在してる。

 

「人間はことばによって、世界を認知するしかない」だ。

 

なぜ、そう思わせようとする?誰だ?

 

矛盾

ずーと「言葉・論理」を積み上げていくと、

いつか「チョキ✌」が「グー✊」に勝っちゃわないとおかしくなる。

ある程度で止めよう。。

 

「逃げる」ことが甘え、、、?そういう観方が偏ってるというんだ。

別にいいんだけど、、、それが何もかもすべてでそういう観方をしてるんじゃないか?

ずっと不自由だなぁ、苦しいなぁ。。

 

「逃げる」は、恐怖にかられて「ワァァァ」って “感情的” にするのではない

”戦略的” に、意図的に「選択」して逃げるのだ。

 

逃げてる間も虎視眈々と反撃のチャンスを伺っている。

隙が見えたなら、翻って、反撃に転ずることもあるのだ。

 

「ワァァァ」ってするのは、フリ・演技。

 

半世紀近く生きてきたけど、、、「思考力」は “鍛えられない”

思考「するか、しないか、」それだけだ。

 

「幸せ」は、削ぎ落としていくと「安心・安全」が残る

 

「熱」が無きゃ、何も始まらない。。

自分自身にも「熱」を。

 

運動、しょうが、、、

 

手法・方法などは、進化してるんじゃない。

偏ったら解消してるだけ。

君主制→共産主義→民主主義→君主制→、、、

 

ウォーキング中、見るものすべてに、解釈、判断、予測、、してるw

 

認知は全部後付の理由 #理由は後付け

そう思っちゃって “しまった” もの

 

死んでも無くならないもの…

『縁起』

【関連記事】▶ 空海は分かってたんじゃないかなぁ。。「自分の死後、何百年、いや千年を超えてもなお、『影響力』を及ぼす」ことを。

 

いたずらに感情を刺激したり、揺さぶったりされるのは、

そうだと早く気付けるように。

 

「無料」とわざわざ謳うのは、意図がある。

乗るか乗らないかは、分かってから決めても遅くない。

 

そもそも最初に「設定」があるのがオカシイ。

「数学」:これを「1」としよう。。

「設定」してるじゃないかw

創作だろ。。

 

あくまで「創作の中」のこと。

 

「自分ごとではない」ニュースって、たいてい、

誰かが世に出てきて、誰かが「あの人は今」になる。これだけ。

毎日同じやんw

 

~ ごあいさつ ~ ハチ@夢中

瞑想やってます。日記書いてます。 ウソかホントか、よく分からない話を読んでくれてありがとう。自分が「認知した世界」を少しづつ書き溜めてます。 (♪素敵なものが欲しいけど あんまり売ってないから 好きな歌を歌う 『JAM』THE YELLOW MONKEY) 自分の頭の中を覗かれるようで恥ずかしいけど、公開します。(後悔しません!) 「ここが違うよ!」「それは分かる」「合ってるよ!」何でもご意見・ご感想頂けると嬉し いです。(難しいことは分かりませんw)