「一人」でも問題は無い。
「一人じゃなく」ても問題はない。
どっちでもいい。
そこは問題じゃない。
「一人」で “しか” 「自由」は得られない
「現象」に対して、自動で「反応」する「わたし」に気付いて、止めるか、やるか「選択」するのが、人間に許された「自由」。(【#止まる】~「とまる」・「やめる」・「とめる」、、)
「自由」を選択するのは、「自分」で “しか” できない。
「孤独」は問題ではない。
「孤独が問題だ!」と “問題視する” のが問題だ。
「孤独」だろうが何だろうが、「問題が在る」ことが問題なのだ。(【#新しい問題解決法】~「問題」を「問題としなくなる」。相対的に。)
「夢中」になってるときは、いつも「一人」だ。
例外は無い。
「ゲームで “みんな一緒に” 夢中になってるじゃないか?」
夢中は、”各個人個人で” 起こってるもの。
一緒なんてアリエナイ。
一緒だとそう”思いたい” からそう思うだけ。(【#因果が逆】~『在り方』→「認知」→「選択」→「言動」の順。)
一人でないと感じれないのは、、
それは「あー幸せだぁ」という感覚。
他人と居るとどうしても「比較・評価」が発動する。(【#分別】~「比較」・「判断」・「優劣」、、してしまう。。)
これは「脳」のデフォルトだからしょうがない。
「幸せ」は、「一人」でないと感じれない感覚。
なんで一人じゃないと、幸せを感じないのか?
目の前に、「比較対象」が現れるから。
比較・判断…が「苦しみ」や「問題」の原因。
目を開けながら、視覚をシャットアウト出来ない。
耳が有りながら、聴覚をシャットアウト出来ない。
感覚全部そう。
「しゃべってる」とき「動いてる」とき、意識は(内)に向いていない。
「ひとり言」も「内語」もそう。
空間ではなく、時間的に「過去」や「未来」に向いている。(【#「時間」は存在しない】~『時間なんて無い』とした方が、辻褄が合うことが多いし、 なにより、自分にとって都合が良い。)
だから、一人で居ない限り、無理なんだ。(内)に向くのは。(【#意識の向き】~(外)向きか(内)向きか、それが問題だ。)