「読書」について思うこと。。
「ハチ@夢中」的、「本」の読み方
速度をゆるめて読む
一文字に1秒かけて、じっくり、ねっとり、3Dのように文字の立体感を体感する。
インクのドットが見えるくらい…(視力の問題ではない)
質感、肌触り、触ってみる、体感で。
裏から、横から斜めから覗いてみる。触ってみる。
単なる記号ではなく、まるで生き物のように扱う。
太極拳。
最初はゆっくり読む。
「認知の密度」が繊細になる。
集中するんじゃなくて、それほどの “繊細さレベル” で在るなら、集中せざるを得ない。
集中 “してしまった” 、だ。(#因果が逆)
“その認知”(#認知が密)になったら、それを維持しつつ、スピードを上げていく。
『緊張・拮抗点』を維持する。
「認知が密」になる前に、スピードを上げない。
じっくり待つ。(#緊張・拮抗)
そのためには意識のいくらかは、(内)に向けてなければならない。(#意識の向き)
「意味を取ろう」とする前に、「認知が密」な状態に成る。
どうしても「意味」に意識は引っ張られる。
一字の「形」を愛でる。
そこから派生する「思考・感情・感覚・ストーリー」などを、ブワッと一つにひっくるめて「体感」する。
一文字の持つ情報量を、「抽象度」上げて、まるっと「体感」で得る感じ。
「は」なら、その持つふくよかなイメージを掴む。
「一文字」を充分味わったら、「単語」へ。単語を充分味わったら、…
さんざん味わい尽くしたあの「一文字」は、もう「体感レベル」に刻まれている。
頭での理解を超えた。
結局はこれが早いのだ。
「意味を取る」前に、「認知を密」にする。
はじめから早いと、情報を取り逃がしてる。隙間が残る。「認知が “粗い” 」のだ。
身体が覚えてしまったら、次に目にするときは、
その一文字についての情報がブワッとまとめて一瞬にして入ってくる。
そうやって早く読めるようになる。
はじめから早いと、情報を取り逃がしてる。隙間が残る。「認知が “粗い” 」のだ。(#認知の盲点)
一度「体感」したことは、なかなか忘れないもの。
スキーとか、自転車とか。
何年も乗ってないのに、少ししたら思い出して乗れる。
体が覚えてる。
一度「体感」したことは、なかなか忘れないもの。
そのためには「体験」を “密” にする。
「スピード」が早まるだけじゃなく、
「意味」も、より入ってくる。
「自分で一つ一つ見つけていかなかったら、 “穴だらけ” や」
「日野晃」氏が言ってた。。
情報を『点と線』で表すなら、
「線」が多ければ多いほど、「点」はクッキリ、ハッキリ分かる。
「マルチタスク」が可能なのは、「シングルタスク」を “密” にこなしてからだ。
情報に “抜けが無い” 。
そしてこのとき、「不安や問題・苦しみ」は無かったはず。
(無我)夢中で『今ここ』に在るとき、それらは存在できないのだ。(#今に在る)(#安心・安全が土台)
何が「夢中」にさせるのか?
『緊張・拮抗』状態に、人間は抗えないのだ。
『時間』もなかったハズ。
「不安・問題」と、『時間』と「思考」は一蓮托生。(#「時間」は存在しない)
『時間』が存在しなければ、「不安」や「問題」も無い。
「思考」したとき “だけ” 存在できるのが『時間』。
「読書」について思うこと。。(雑念)
本や言葉で「理解したとき」は、「既に “分かっている” とき」。
分かっていなかったら、読んでも聞いても、理解できない。
場合によっては、認知にすら上がらない。
順番は、「分かっている」から、言葉を読んで→「理解できる」だ。
やっかいなのは、本や言葉で「理解」したときに、「感動」があることだ。
「( ゚д゚)ハッ!!そういうことか!初めて分かった。。」
分かったのは、そのときじゃないのに、、
だから「知識」に溺れる。そこに「価値がある」と “思い違い” をしてしまう。。
本や言葉で理解したときは、既に分かっていたのであり、「確認」してるだけなのに。
「抜け・漏れ」とは、「認知領域」内に有る「盲点」で、”落とし穴” だ!。
「なんだか前に進めない、、」「何度やってもまた元に戻ってしまう、、」
毎回同じ “落とし穴” にハマってる。”落とし穴” の存在に気付いてない。
「認知を密」にして、ゆっくり・じっくり進まないと、「抜け・漏れ」が発生してしまう。。
“一番大事なこと” から埋めていく。
「ヌケ・モレ」…そこを避けては通れない…
読書のメリット
絶対「安心・安全」な立場で、いろんな感情を体感することができる。
現実では体験出来ない…
認知領域を拡げられる?
本を読んで、「認知領域」が拡がったか?という視点。
「面白い、面白くない」「快、不快」は問題ではない。
自分の「偏り」を解消してくれたか?(#偏り)
それよりも何よりも、
読みたいという「欲求」が有るかどうか。(#ほんとうの欲求)
手書きで文字を書く習慣が無くなった今、
文字からの情報を逃している。。
「必要」「べき」を深めていくと、軽くなる。
「本を早く読む」必要が、どこにあるのか?誰がそう決めたのか?
「読書をする」必要が、どこにあるのか?誰がそう決めたのか?
「知識を入れる」必要が、どこにあるのか?誰がそう決めたのか?
、、、(#○○(す)べき)
深めるのが怖くなってくるハズ。
「何もする必要が “無くなる” 」と、「わたし」の存在が脅かされるから。(#わたし・自我)
「 “何かしてる” わたし」が「わたし」であって、
「何もしてない」のは、、、誰?「わたし」が存在しない→『不安』。(#安心・安全が土台)
「欲求」が “無い” のに、何か「メリット」のための読書なら、しない方がいい
「嫌いなこと」が “増える” だけ。
読書に “限った” ことではない。
(#ほんとうの欲求)
良い本・悪い本なんて無い。
「抽象度」の高い・低いは有る
抽象度が高いから良い本ではない。
良い悪いは、状況や環境に依る。
拳銃突き付けられてるときに、「愛とは〜」「空とは〜」なんて役に立たない。
どうやって拳銃を自分から外せるか、物理的な情報が必要だ。
「知る」ことで、「認知領域」を拡大する
「ピダハン族」という存在を本で知った。
世界一幸せな民族であるという。
「過去」や「未来」を表現することばが少ないという。。
つまり『時間』という概念が薄い、価値が低いのだ。
そこで「幸せ」なんて、裕福であることとは無関係だと気付く。