「自我」が肥大したとき、人を見下す
人を見下す≒「ピラミッド構造」の始まり
【「自我」の肥大】が「ピラミッド構造」の始まり
【結論!】
「わたし」は無限小の点「・」である。としたとき、それ(「ピラミッド構造」)は存在しない。
「わたし」が、「(外)の現象」とは、限りなく「無関係」で、「独立した存在」であるから。
以下、この説明をしていく。
良い・悪いの、道徳的な話ではない。
ただ、「しくみ」を記す。
目次
無限小である「わたし」、とは別に「認知領域」を拡大する
“すべて” は「観察対象」。 “気付く” ための「サイン」。
「わたし」が無限小の点「・」でピタッと止まってるからこそ、外の現象をちゃんと「観れる」。
「わたし」が無限小の点「・」であるから、解決すべき「苦しみ・問題」が無い。
「頭痛(感覚)」も(外)で起きてる現象の一つ。
「いらつき(感情)」も。もちろん「(思考)」も。
(複雑に絡む)何かに勝手に「反応」してるだけ。。
起きてる現象に「優劣・比較」は無い。「分別」が無い。
「他人ごと」は、 “一律で” 「他人ごと」。。
ぜんぶ “一律・公平” で「観れる」から、「認知が偏らない」。「満遍なく認知できる」。
「盲点が発生しない」。
包含・許容する。
♪ 髭伸びても気にしない
ぜんぶ「わたし」とは無関係。取り扱う必要が無い。
「外の現象」に巻き込まれない。
♪ 理屈も法律も通さない 誰の声も届かない 友達も恋人も入れない
「すべきこと」が無い。何をしてもいいし、しなくてもいい。
でもエネルギーが在るから、何かしよう。というだけ。
そうやって初めて動く。
ほんとうの欲求で。
絶対「安心・安全」で在れる。
今のままでの自分でOKとなる。
そうやってずっと “無限小の点” である「わたし」に向いていると、「認知が密」になる。
そうすると、比例するかのように、「認知領域」が拡大していく。
その広い「認知領域」に浸っていると、「意識が(外)向き」になり、「自我」が肥大していく。
それに気付いて、「意識を(内)向き」にする。
ずっとその繰り返し。
偏って、解消して、また偏って、解消して、、