『すべての認知は一律で愛すべきクソ💩である』とすると、
ぜんぶ辻褄が合った。「ワダカマリ」が無くなった。。
どの「認知」を「採用」して、どの「認知」を「捨てる」かのプロレス。
目次
「すべての認知は…」は、瞑想の心得みたいなもの?
次から次へと、浮かんでは消える「認知」を、一つ一つ丁寧に、
「それは要らない。それも要らない、、、」と捨てていく行為の心得。
すべての認知は「クソ」である
「矛盾は無い」という設定内で創り出される物語。
「認知」はこの設定(「認知領域」)内で創り出される物語。
科学や数学、、論理や理屈など、、
「方程式」ですら、人間の設定の中での話。「ホーテーシキ?」
「矛盾はない」という “設定内” で、「発見した!」「真実だ!」って言ってるだけ…
カントは「人間はモノ自体には到達できない」と、丁寧に言葉を選んで、そう言ってるが、、
つまりは、「認知はクソである」ということ。
「認知の檻?」の中でずっと踊らされている。
「誰か・何か」が起こした「認知」で、、
誰かの「認知」は、”その人個人” の「感想」。それは「ソクラテス」であっても変わらない。
自分を否定することは出来ない。
大抵のことは、その人を見ると、自分を肯定するようなことを言っているw
すべての認知は「一律で」クソである
すべての認知は一律…というのは、、
格言でもまったく正反対なことがあるが、
読み取る側の『在り方』によって、適切なことが違う。
嘘も方便
「認知」してる時点で、「分別(比較・優劣などの判断)」してる。
「ことば」や「行動」に表れてしまっていては、もうだいぶ遅い、、
「認知」に、なんの優劣も無い。
▶【#分別】~「比較」・「判断」・「優劣」、、してしまう。。
すべての認知は「愛しき」クソである
認知があるから楽しいんだ!
ある時気づく。
認知があるからだ、と。
認知があるから、「幸せ」だと感じれるんだ。
「不幸」と「幸せ」はセットだ、と。
認知があるから存在する、生きているんだ、と。