【瞑想日記】更新中!

【#瞑想日記】2023年04月~

【#瞑想日記】2023年04月~

2023年04月~

「なんで急にこんなこと思ったんだろう?🤔」あきらかに瞑想によって得られる認知。

単なる「思い付き」とは言えない。

だって、『結論が先に分かって、後から論理・理屈に出会う』、そんな経験が多いから。

ここに書いておこう。。

「わたし」が、ただ認知したことの書き溜め。

読み返すと、「矛盾」もある。

だけど、わたしの中では「ワダカマリ」が無い。

 

目次

おNEW!

 

すべての認知がクソ💩だと分かれば、一気に問題が無くなる。

一つ一つの認知に、いちいち対処法を調べたり、考えたりしなくて済む。

「ぜんぶ要らね」、、、完。

 

自分でも気付けないほどいろんなことを「比較対象」にしてしまって、「不安」になる。

繊細に感じ取ってしまう…

 

それが何なのか探さない。

どうせ見つからない…複雑すぎて…

 

断定しない。「神」とか、「霊」とか…

(※追わない。完全『自己解決』を目指すため)

 

まるっと括る「ナンカワケワカランモン」と。

 

「比較対象」を減らすことで、「安心・安全」を感じられる

夢中、集中…

 

「国」や「法律」が、何か「大きさ」や「機能」を持った、確固たる存在として体感がある

日本は今、他国に押されてる…とか、

 

それと同じで、「認知領域」というのも、実感を持ってありありと臨場感強く感じることができるようになる。

今、「認知領域」が狭いな、広いな。偏ってるなぁ…

 

存在を感じれるから、扱えるようになる。

雲をつかむような話ではない。

 

どのような過程で扱えるようになるかというと…

あるとき突然コツを掴むように。

「積み上げ型」ではない。

段階は無い。

 

振り返れば大抵のことはそうだったはず。

自転車に乗れるようになったとき、

受験勉強の点数、

スポーツ…

 

自分ができることは、

「観る👀」「気付く❗」「止める⛔」

反応・結果を「観る」

 

漠然と、「気持ちが軽くなった」…ではなく、

「認知領域」が拡がった。許容できる範囲が拡がった。

とより明確にすることで、扱えるようになる。

 

広さと言っても、ただ単に空間を示すことではない。

 

そこら辺は、「国」とか「法律」とかと一緒。

 

「不安」を感じても、

「どうせそれって認知だろ。すべての認知はクソだし。。」って思えるかどうか。

「不安」よりも、はるかに「大きな器」で「許容」できるか。

 

「認知領域」を狭めれば、「安心・安全」には一瞬でなれる。

(例)布団の中

 

「安心・安全」すらも、そんな程度のもん。

もう、「安心・安全」を問題としない。

 

扱うべき問題は、「そこじゃねぇ。。」

 

結局何をやってるかと言ったら、、

「占い」「宗教」「神」「希望」「感謝」、、、

ぜんぶ「認知領域」を拡げてる。

 

今の “それ” を、まるっと括ってしまう何かが在ったことを気付かせる。

 

「運動」もそう。

意識を取られがちな状態でも、「認知領域」を保てるように。

 

「愛を訴えてる人」は、「愛以外」が在ることが、認知から外れてる。

「認知領域(外)」。

 

「愛」を認知した瞬間、「それ以外」が在ってしまう。。

 

それでは、一生「愛」からも「愛以外」からも逃れられない。

そこを問題としない。

「愛」すらも娯楽。。

 

『カエルの小指』p.155

「幸福の対称性って知っていますか?」

「たとえばお金で言うと、百万円増えたときに感じる幸福度よりも、その百万円が消えたときに減る幸福度の方が大きいらしいです。プラスマイナスゼロのはずなのに、人間はどうしてもそう感じてしまうんだそうです。」

「人間はみんな、幸せになれないようにできてるんです」

『カエルの小指』p.155

 

『カエルの小指』p.164

何かに原因を求めないと、どうやっても太刀打ちできないような苦しみが、この世には存在する。

『カエルの小指』p.164

 

認知領域を「拡げる」「狭める」リスト

「拡げる」

・どっちでもいい。どーでもいい、そこは問題じゃない。。

・許す・感謝する・認める・あきらめる

・「わたし」を小さくする

 

「狭める」

・「ギュッとする(される)」

・「意識を集中する系」

・「呼吸法」「マントラ」、、、

 

「!(分かった)」という瞬間だけが、「ヌケモレ」が一切無い。

その瞬間だけで、次第にその感覚は薄れていく。。

 

「知識」や「経験」では、必ず「ヌケモレ」が在る。

どんなに緻密に積み上げて行こうとしても、発生してしまう「ヌケモレ」

 

「神」を信じる人は、信じれば信じるほどその存在が臨場感強くリアルに「在る」と感じる

それと同じで、

「丹田」とか「気」、「国」「社会」「会社」、「愛」「心」など、すべての「ことば」にできる概念も、実体は無いのにリアリティ強く「在る」と感じる(?)

 

「認知領域」も、それらと同じ。

いつも意識を向けて、感じようとしてたら、「存在」が強くなる。

 

意識に身を委ねて、ゆらゆらしてみる。

空間を密に、ヌケモレ無く味わう感じ。

すると、しだいに感覚が密になってくる。

【物理的な認知】と【情報的な認知】~「ゴミ箱シュート」と「階段にやさしく」~ #short

 

生きるには、どこかで「尖る」しかない。

それが疲れる。

だから委ねる。自動の反応に。

それは「わたし」ではない、と。

 

誰もが「他人ごと」を無意識に使い分けてる。

豚肉は食う。けど、殺すところは見たくない。でも豚肉は食う。、、

 

ここには適用するけど、ここは適用しない。

なんなん?

 

「自由意志が無い」とすると、やることがシンプルになる。

「わたし」がやれることは、「観る」「気付く」「止める(選択しない)」の3つ。

 

すべての認知がクソであるなら、厭わず捨てられる。

 

委ねた認知の結果を観て、良かったら次も委ねる。悪かったら選択しない。

どうせ今出来ることしか出来ないんだから。。

 

【注!】「利己的で在る」というのは、「自我」を強める方向にいきがち。(経験済み)

そうじゃなく、「認知領域」は拡がる方向へ。

 

「認知グセ」って、人によってたいてい決まってる。

ぐるぐる、、同じクセを何度も何度も、、

そこを突き止めて、解消したときのことをメモッとく。

また来たら、それを見る。

 

5本の指を組むとき、右の指が上になるか、下になるか、効き指(?)があるはずだ。

意識してこれを変えた経験がある。

 

SNSやニュースを見てると、突然人生が変わるような、事故・病気・災害に会う

人生設計なんか意味あるのか?

予測・計画、、

 

切羽詰まると、急にことばが出てくる。

危機を感じると、頭が回り出す。

物語を創り出す。

 

他人を見たときに、外見や振る舞いに意識が向いて、気になってしまうのは、、

自分の(内)に意識が向いてない証拠。

(内)の方が重要だとほんとうに分かっていない。

 

ほんとうに分かっていたら、その人の意識を、「認知グセ」を観ようとするはず。

興味がまだ(外)なんだ。。

 

「順番」なんて無いのではないか?

「順番が在る」という見方があるだけで、、

 

本は、1ページ1行目から、2、3、、、、と最終ページに向かって読む。

何か「やること」すべて、そうだと思いがち。。

一つ一つ積み上げていって、「分かる」に到達するんだ、と。、、、?

 

それは「理解」。「分かる」は一瞬で到達する。

 

在るのは「抽象度」じゃないか?

いきなり上に飛ぶことだって出来る。。

「考える」を止めても、「思い付く」は止まらない。

 

「順番」に捉われないと、作業が進む。

気付いたら、そのときすぐやる。

これが効率良い。

 

認知したことをブログを書き貯めて、それを見返すと、「抜け・漏れ」(認知の盲点・矛盾、、)を発見することがある。

その瞬間、「認知領域」から抜け出てる。認知領域が拡がった。

問題の外に出た。

 

そしてそれ(認知の盲点)を埋めるために、脳は勝手に動きだす。

物語を創ろうと。。

 

そうやって認知領域内の「ヌケモレ」を無くしていく。

 

「現象」が追いついてこないのは、「認知」をほんとうにクソ💩だと分かっていないから。

分かっていたら、「捨てられる」

 

そこにこそ「自由」がある。喜べる。

因果の捉われのサイクルから抜け出た!と。

 

因果とはビリヤード。

「つまんない認知」に突き動かされてるだけ。

 

「ワケワカランモン」とは、自分の「認知領域(外)」のこと。

どうやっても必ず在る「訳の分からないもの」

それによって支配されている。

 

「わたし」には認知できない「大きな何か」 。

 

「選択する」というのは、踊らされるということ。

自動の反応である認知に。

踊らされないのは、唯一「選択しない」ときのみ

 

「〇〇は✘✘ではない」だけが正しい

「〇〇は✘✘だ!」では、矛盾や問題が発生してしまう。

あと「抜け漏れ」が必ず有る

 

♪自由を覚えて勝ち取った孤独

♪ 自由を覚えて勝ち取った孤独

『至上の人生』椎名林檎

 

そうか!孤独になるから自由になるんじゃない。

自由で在ることは、すなわち孤独なんだ…

 

何を聞いても読んでも、最終的には納得できない…

矛盾点、問題点、盲点を発見してしまう、、

 

その理由がわかった。

ことばだから。

ことばにしたから、ヌケモレ、矛盾、問題が発生してしまう

 

偏りを解消するから、勝手に欲求が湧いてくる。

逆をやる?

認知の盲点を見つける方法?

 

慣れ・飽きはサイン

疲れを感じるずっと手前で気付く

休むのではない。偏りを解消するのだ!

 

自分の「思考・感情・感覚」から意識が離れたとき、気付けない。オーバーワークだ。

 

「自信」というのは、「認知領域」を示す一つの指標

「自信」という認知領域が在る。

出来る・出来ないの内、出来る範囲。

 

でも「自信」よりも広い「認知領域」は、「出来ない」をも許容する。

「出来なくてもなんの問題もない」、だ。

 

「知ってる」「知らない」も同じ。

「知ってる」は「知らない」を包含してる

逆はない

「知ってる」も「知らない」も包含できるのが、広い「認知領域」

 

自分がことばの扱いが下手だから、とか、

論理的な思考が出来ないからとか、

そういう理由ではない。

 

根本的にことばの性質上、無理なんだ。

 

「ことばに矛盾はない」こんな人たちと絡んでるからおかしくなるんだ。

と言っても、そんな人たちが大勢…

 

そこから抜けるには…

やっぱ「プロレス」なんだよなぁ…現実的に可能なのは。

 

言い合い、論じ合いで、いつも巻き込まれる。

プロレスしてると分かればいい。

 

プロレスは、勝ったり負けたりして、物語を作っている

負けをも織込み済みだ

 

脳が創り出した「物語」が集合意識にまでなって、拡がる。

現象化する。

そしてそれが「確信」になり「自信」になる。

 

ということを、今、分かっているか?

だから不安はないし、どうせ失敗しても、結局、次の認知に移るしかない。どうせそれしかないってんだよぅ。。

 

自分のことしか言わない、言えない。

だから緊張も何も無い。

分からないことは、分からないで良い。

 

「観る」「気付く」ができる頃、既に「止める」も出来る。

そこに重要なことがある。

そこにこそ価値がある。

と分かるから。

 

進む…?進む必要はどこにもない。

「わたし」はいつも止まってる。それだけでOK。

進んでしまうのは、それはしょうがない。

 

それは「『他人ごと』である」とすると、「認知領域」が拡がる。

許容してる。

殺人事件でさえも、小説の中の出来事だったら、ちゃんと向き合える。

 

自分では「自分の問題」は分からない。他人は分かる。というのは、

問題の外にいるから。

「他人ごと」なら何が問題か分かる

人に相談するというのはそういう意味で有効なのだ。

 

パートナーが死ぬと、立て続けに死と元気がなくなってしまうのは、一人では認知が及ばなくなるからだ

 

瞑想は、それを一人でやれるようになる

本当の「わたし」は、今思ってる「私」よりも、もっともっと小さいのだ。

 

「もう誰とも話したくない、、」と「望み」強化してる。だからその通りに願いが叶う。

そっちに行動を誘導する。脳が。

「誰かと話してもいいし、話さなくてもいい。どっちでもいい。」と許容する。

強く心の底から「ほんとうにそんなのどっちでもいい。そこが問題じゃない」と想う。

「うまく話す方法」とか、「緊張せずに話せるには、、」とか、問題にずっと付き合ってるから、問題との『縁』が強化される。

 

「認知の盲点」に気付けるには、問題の渦中に居てはダメ。

問題が無い、楽観的(「安心・安全」)であるから気付けるんだ。

 

「気付こう」としてるということは、「気付く状態」を望んでる。「気付けない」という問題を抱えてる。

これでは気付けない。。

 

何もしてない時間を密に感じることができてるか?

何もない空間を密に味わえてるか?

 

「物理的」な認知≒「情報的」な認知

リンクしてる。

【物理的な認知】と【情報的な認知】~「ゴミ箱シュート」と「階段にやさしく」~ #short

 

行動の起点が「不足」から…それは嫌だ。

行動の起点は、満たしたら、溢れ出てしまったもの。

たしかに、「不足」はエネルギーを産み出すが、飲み込まれたくはない。。

 

「助ける」という行為すらも、誰かの何かを奪ってる可能性があることに気付けない。

「自主性」「可能性」…

もしかしたら、あと少しで自分で気付けたかもしれないのに、助けてしまったがために、気付けなかった…

 

認知の盲点。

自分の都合のいいことしか見えない…

 

どこに自分の自由があるのか?

「観る」「気付く」「止める(選択しない)」

これだけに喜びを見出す

 

外の現象とは無関係に

 

そしたら勝手に人生が映画になってしまう。。

 

💩と💩の投げ合い、ぶつけ合い、、

大の大人が、💩という💩を持ち寄って、本気の投げ合い、ぶつけ合いをしてる…なんとも滑稽な…

外から見たらそう見える

 

愛しき💩である「認知」

プロレスをするための道具

 

認知とは、そういうもの。。

【すべての「認知」は一律で(愛しき)ク〇💩である】~キレイも汚いも無い!

 

( ゚д゚)ハッ!「欲求」すらも “自分起因” ではない!

それは、外界の現象に自動で反応した結果、「欲求」として現れた。

その外界の現象もまた、他の現象が起因で、、、無限に遡っていくと、もう宇宙の起源。しかしそれもまた、、

 

なぜ?とか、原因を探ることに意味を見出せない。

問題が無くなった。。

 

行動などの現象は、因果の中では末端のこと。

末端にいくらアクセスしようと、改善しようとしても、

また起こる。繰り返し

 

選択の自由はない。

選択しない自由のみ。

選択してる、したいと思ってるだけで、してしまっている。させられている。欲求に。

 

意識を(内)向きにしていたら、必ず気付いてしまう。

問題ばかり認知していること。

 

認知の起点は何か?

 

「わたし」とは?

、、、

 

皇族も王族も、政治家も財閥も、行動原理は同じ。

人間は、いつでも

「血縁」を強固にするように、

今の体制が続くように動いてる

 

民主主義という隠れ蓑を被った資本主義

 

ただそのためだけに…

世界はそういうプロレスの中に在る

 

この世界は、ほんとうは分かれてないのに、分けてるじゃんw

「ことば」にした時点で、いや、「認知」した時点で、もう分けてるから、この世界をちゃんと捉えていない。

【#分別】~「比較」・「判断」・「優劣」、、してしまう。。

 

「論理」の中にいつまでも居るから「うつ」になる。

「論理」には必ず「矛盾」がつきまとう。

そこから抜け出ないと、、

 

何か「ワケワカランモン」が上に在ると、狭い認知から抜け出せる。

 

「争う」という行為は、自分の(狭い)「認知領域」外の人を排除したい・括ってしまいたいことの現れ。

「認知領域」を広めようとしない。出来ない。愚かだ。。

自分の「認知領域」を拡げれば、等しく・一律に括れるのに。。

 

「集団意識」が「ことば」になり「現象化」する。

「集団意識」の臨場感を上げさえすれば、誰かが勝手に「分別」して「ことば」をあてはめる。

 

善にも悪にもなることもある。それすら自分で決めれない。。

2対8のアリの話し。

 

コミュニケーションなど会話・対話で争いが解決するはずない。

自我と自我のぶつかり合い。

妥協なんてどっちも出来るはずがない。

 

対話・会話 “させよう” としてるのは誰だ?目的は?

 

嫌なことがあっても、意識は「(観察する)わたし」に。

「大変だ!」…と、頭は思っている。

 

そこにしか自由はない。

そこにこそ自由がある。

 

目標の抽象度が低いと、悩みや問題が多くなる

抽象度(低い):「職業〇〇になりたい」

抽象度(高い):「親孝行したい」

 

格闘家が「格闘技の素晴らしさを伝えたい…」…そりゃそう言うだろ。

格闘技とは無縁の人があるとき突然「( ゚д゚)ハッ!格闘技って素晴らしい!」と言ったら聞く耳を持ってもいい。

もしくは、

格闘家が、「格闘技なんてクソだ!」と言ってたら。

 

自分のやってることを否定できる≒巻き込まれていない。渦中の外側に居る

 

何が良いって、

それが分かったら、もうそういう情報に反応しなくて良くなる。

 

世の中の情報の殆どは、宣伝広告、踊らそうとする。

瞬時に気付けることだ。

 

問題を無駄に抱えなくなる。

 

すべての認知がクソであるとさとったら、良いのは、

何をやればいいのかという、選択の悩みが無くなる

「わたし」に出来るのは3つ。「観る」「気付く」「止める」

 

どんな商売も、詐欺、だまし。

そこに優劣も善悪もない。

 

と分かる。

 

その手法が使えなくなると、絶望する…

 

抜け漏れなく、自分で発見してきたら、絶望などしない。

坦々と、今できることをやっていくだけ。

 

「思考の起点」ていうのも、実は “仮想” で、

実際は、無限に遡れる、「(外の)現象」が起点。

その起点にも起点があって…

 

「思考の起点」とは、脳内発火した瞬間のこと。

通過点。

 

(外界の)現象に求めると、もっともっとと、抱える「問題(欲含む)」が増えていく。

結局、「不足」は埋められず、よーするに不幸へ。

 

自由で在り続けるには、「観る」「気付く」「止める」をするしかない。

それが出来てることが、自由。

 

一つを意識しながら、他のことを意識することはできない。

(だから人間は、生きてる限り必ずどこかに偏っている)

【#偏り】~「偏り」にいち早く気付き、解消する方へいく。

 

だからもっとも抽象度高いこと一つを意識する必要がある。

抽象度高いことを求める必要がある。

 

自分を観察することで分かることがある

「自分攻略法」みたいな。。

他人はどうか?人間はどうか?ではなく、自分はどうか?

 

見るというのは、止まってしまうくらい。

観察してなきゃ一生分からない

【#観る】~「他人ごと」なのか、「自分ごと」なのか。。

 

「自我」が有ると何が良くないのか。。

「邪念」が起こること。

やってる最中に、「結果」だったり、「怒り」だったり、「良く魅せたい」だったり、、

「ただやる」ということが出来ない。

 

想えば良かったなと思える時って、、自分の殻がしっかりしてたときだ。

自分の感覚だけがすべて。

そこだけにしか真実ははい。

そこにしか興味がない、と。

【#利己的】~「自分の問題」だけを解決してればいい。。

 

「なぜ?」っていうのは、考えるべきことではない。。

どうせ自分にとって都合の良い物語を創ってしまうw

見つけてしまう。

 

「( ゚д゚)ハッ!」気付いて、『認知領域』が拡がった瞬間だけを、楽しみとして生きたっていい。。

何をやったか、起こったか。やらなかったか、、

(外)の現象に優劣は無い。

 

道端に咲く雑草に感動しても、

大金を稼いで豪遊しても、

 

「!」のときの快楽に何の差もない。

【#「さとり」は一瞬】~「!」「!」「!」、、、「気付き」の連続。

 

自分が一定でないのに、他人に一定を求めてる…

自己が分かれば、他者も分かる

自分を許容できないから、他者も許容出来ない。

【条件をすり替えた?!】最近ムカつく奴が一人いる。~「(もしも、)俺だったら、、、」?

 

!!「観よう」とするから、「止まる」んだ!!

自分の思考・感覚・感情を、ちゃんと観ようとしたら、、止まるしかない。

屋根裏の忍者。追い詰められた泥棒、、

 

「止まろう」とする必要はない。ただ「観よう」とすればいい。

「止まる」は結果だ。

 

もう「止める」は、意識を向けるべきことではなくなった。

 

大抵の場合、間違ってるのは、自分の「認知」の方だ!

「不幸だ」とかは、特に。。

 

「平和で幸せ」なのは、長い歴史上では、ここ最近の話し。これはデフォルトではない。

 

なかなか望『在り方』に成れない。。「思考」も「感情」も暴走してしまって、、、「!」

でも、「身体」はコントロールできる。

ゆっくり動かすことができる。

 

A地点からB地点まで、ヌケモレ無く、空間を味わうように腕を脚を、指を。。

 

人に分からないくらい小さな動きでもいい。

A-Bの間隔は1cm未満。5mm。1mm、、ご自由に無限小に。

 

すると「思考」や「感情」が、その繊細な認知(「感覚」)の方へ寄ってくる。

認知の焦点を、「繊細な方へ」とやってみる。

 

「人生の3つの○○」、、、もう、3つというふうに分別してるのが気持ち悪い。。うぅ。。

「○○とは、、だ!」というのが分別してる。

【#分別】~「比較」・「判断」・「優劣」、、してしまう。

 

「( ゚д゚)ハッ!」だから、「○○とは、、、ではない!」というしかないのか。。

 

「認知」が生きてりゃなんとかなる。なるさってんだよぅ。。

大丈夫!「認知」さえちゃんとあれば。脳は「自分にとって都合の良い物語」を創ってくれる。

 

スポーツや格闘技観戦で出る、ドーパミンやアドレナリン、、

それが「プロレス」だと「分かって観る」のか、「巻き込まれている」のか、、

 

(前者)で在れば、、、ストレス解消。

(後者)なら、、、推しが負けたら、ノルアドレナリンが、、イライラ。。

 

『在り方』によって、同じ現象でも違う反応が。。

 

「集中力」って、ベクトルじゃない。

「量」があってはダメ。

続かない。疲れるから。

 

「集中」とは、「向い」て、「尖る」こと。

無限小の点・に向けて。

 

誰かに応援されるから、やるのか?

応援されなきゃ、やれないのか?

そうじゃないだろ。

 

そこに行動の重点を置かない。

 

何かをしなきゃ、私は幸せになれない…

そりゃ確かに不幸だ。

 

すべてが「クズ」だって、何でだれも言わないんだ、、

言えないんだ。。自分を否定することなど、、

【すべての「認知」は一律で(愛しき)ク〇💩である】~キレイも汚いも無い!

 

「!」ブルーハーツが言ってた。

♪すべてのクズどものために

 

「考えるべき問題」をどう選択するか?選択基準は、「どっちが抽象度が高いのか?」

サッカーで言えば、戦術をどうするか?

いろいろあるけど、、

 

あそこまで雨降ってたら、何よりもまず「雨の戦い方」。

「代表戦」であるということ。クラブチームではない。

 

なぜ泣く?

ブッダも泣かなかった。彼は生まれてすぐ七歩あるきました。7は孤独な数ですね・・・。孤独を知っている者は、泣きません

#『すべてがFになる』 (P.496)

 

完全に「独立」している=「比較対象」が無い

差異しか認知できない人間には、「比較対象」が無ければ、感情も感覚などの認知は生まれない。

 

#『すべてがFになる』 を読むと、その広大な世界の中に入ってしまった感じが、

『認知領域』となる気がする。。

 

このとき「わたし」は、とても小さく感じる。ほぼ無い。

 

「遅い?」…何と比べてる?

「比較対象」が無かったら、「遅い」とも、「早い」とも思わないはず…

 

すべての認知はクソである。

【すべての「認知」は一律で(愛しき)ク〇💩である】~キレイも汚いも無い!

一回でいいから捨ててみよう。

 

「ウサギと亀の話し」はホンマや!

飛び飛びで進むと、ヌケモレが発生する。

【#読書】~「抜け・漏れ」が出ないよう、ゆっくり読む

 

「出来る」は、「できない」を包含する。逆はない。

「抽象度高い」は、「低い」を包含する。逆はない。

つまり、「具体」に降りることも『自在』に…は、可能だ。

 

馬鹿なフリが出来るのは、馬鹿じゃないから。

 

「選択」の基本、優先順位は、

①、「ワケワカランモン」

直感?、降ってきたアイデア、、

 

②、「数字」

「数字」は見るけど、、それを超える「何かワケワカランモン」はないかなぁ。。と、いつも探してる。

 

見つかったら①を選択する。

見つからなかったら②を。

【長い時間軸で観る】~今、ほんとうに「どん底」かどうか、、怪しいと思った方がいい。。「WBC」「1勝9敗」「1クールの、、」

 

「自在」で在りたいなら、「両極」を知ってなきゃならない。

そうでなきゃ、アリエナイ。。

 

善と悪。正と偽。明と暗、人は普通、これらの両端の狭間にあって、自分の位置を探そうとします。自分の居場所は一つだと信じ、中庸を求め、妥協する。けれど、彼ら天才はそれをしない。両極に同時に存在することが可能だからです。

『有限と微小のパン』(P.)

 

人間は「差異」でしか「認知」できない。

それは「偏り」。

 

「認知領域内」に入れるか、外すか。。

「利己的」も「利他的」も。。

 

「結果なんか知らね」⇔「結果からしか学べない」

【結果なんか知らね!】~やってる最中に「結果」なんか考えるバカがいるかよっ!

 

「認知グセ」を見つけて、それに向き合う。

コレこそが「利己的」であれ、ということ。

 

ずっと付いて回る「自分の問題」。

いつも後ろで引っ張っている、足枷。

そこから抜けてこそ、ほんとうに次の問題に取り組める

 

自分の場合は、1つに「今こんなことやってて大丈夫だろうか?」

これに向き合って、自己解決出来ないか…

今、「こんなことやってて大丈夫だろうか?」「もっと他にやるべきことがあるんじゃないか?」そう思ったときの対処法。

 

ホントはいくつも「抜け道」があるのに、

忘れてしまっている、思い出せないだけで…

「認知の盲点」を埋める。

【#認知の盲点】~消すことはできない。必ず付いて回る(恐怖)

 

「認知領域」が広くても、偏ってると「不安になる」

人生なんてこんなもんだ。と、高を括る、、

 

いろんな情報に触れることができるから、脳がそういう物語を創ってるのだ。

そんなに狭くないのに、そう思えない…

 

偏ってることに気付けない。

気づく練習、気付き体質になるよう、瞑想しよう。

 

「(外の)現象」よりも、「(内の)選択の自由」にこそ、臨場感をもつ。

(外)に偏りがち。。

【#意識の向き】~(外)向きか(内)向きか、それが問題だ。

 

「止まる」が良いからって、身体をピシッと止めてるのは不自然。

止まるのは、無限小の点である「わたし」だけ。

 

身体や思考は、野獣のように解き放て。

手綱は離すな。

 

ぜんぶ分かって、やらせてる。。感じ。

【#止まる】~「とまる」・「やめる」・「とめる」、、

 

 

【SHORT】(短っ!)~捨てるには惜しい「気付き」

◆覚悟って許容だな。。

 

◆問題解決してるように見えて、問題を発生・巻き散らかしている

 

◆生きてなきゃ、至高の体感である「安心・安全」も感じれない

 

◆ストレッチのように認知領域を拡げる

 

◆「認知領域」は、「自分ごと」と「他人ごと」の分け?

 

◆解決策も無いのに、無駄に問題だけをまき散らし、、だから何だってんだよ!段々、深刻になっていくのに気付けない…

 

◆「不足」に動かされているのか、、「満たされて」その “溢れ出し” で動いているのか。。

 

◆「尖る」のは、自己の問題を解決してから。溢れ出た分で。

 

◆「マントラ」というのは、「認知領域」を狭めて、一時の「安心・安全」を得る手法。

 

◆「認知領域」=「安心・安全」領域?

 

◆他人にとっては、私のことなど「他人ごと」 これが分かってるか、、?

 

◆本質に至るほど物事は簡単になる。。抽象度の話し。

 

◆対人関係で心がけるのは、「認知領域」を拡げてあげること。

 

◆猫が狭いところに入ろうとするのは、「安心・安全」が手に入るからだ。

 

◆究極は、「認知領域は広くなくてもいい。」だ。

他人と比べない

 

◆意識を内に向ける、、一言で言えば。。「自分と向き合う」か。

 

◆一度繋がった『縁』は取り除けないけど、その『在り方』は変えられる。

 

◆「意思」に量は要らない。「意思」はベクトルではない。

「向き」だけ。

 

◆「気が利く人」よりも「気が付く人」に。、、何に?

「認知の盲点」に。

 

◆(外)の現象に引っ張られずに、「緊張・拮抗」は自分がつくる。

 

◆「認知領域」というものを強く意識し続けていたら、そのうち臨場感高く「実在」するようになる。

 

◆「事実」なんてものは無い。「主観」と「偏り」のみ。

 

◆認知領域が拡がれば(人を想うことができれば)、認知の盲点に気付ける可能性が生まれる

 

◆「観る」「気付く」「選択しない」をやらないということは、

ただ反応してるだけ。ビリヤード。

 

◆「脳の暴走」が止まらないのは、、

頭が良いと思ってる人は、それを自分で否定できない。止められない。。

みんな、その人たちの「認知の世界」の中で踊らされてる。

 

◆基本、「認知領域」の外周に居て、ときどき物理世界に遊びに行く。という意識。

 

◆科学などで、「もう答は出てるのだ」。。どうしてそれを証明できるのか?

科学の大前提が、「矛盾は無い」なのに。。

 

◆認知しなければ、何も起きたいんじゃないか?

反応が…

 

◆人間の認知が変わって、集合意識まで影響を及ぼせたら、

世界は変わる

 

◆命さえ繋がってたら、瞑想できる

瞑想する時間を圧迫してまで、何か他のことをすることはない。

 

◆誰かの不幸は、次の瞬間自分にも起こり得る

それを忘れがち。。

 

◆見るのは自分のブログ(内)。

自分のことば(認知の結果)だ。

本じゃない。ネットじゃない。(外)の現象じゃない。

 

◆芸術だってそう。「何だこれ?」って思わせたら勝ち。

認知の盲点。

でもその効果もだんだん薄れていき、そして誰も反応しなくなり、無価値に…

 

◆体が重いと意識が取られる

全ては認知のために…

 

◆要は何をしてるのか…意識を自在にコントロールしようと訓練してる

 

◆人それぞれ、「夢中」がある。それでいいじゃないか。。

 

◆探す必要がないから、持ち物が少なくなる

「ミニマリスト」はなるのではなく、なってしまうもの

 

◆何を思考させられているのか?与えられる題材は?望む認知なのか?

人生は認知で出来てる

 

◆自分に都合のいい人が、「いい人」

自分に都合のいいことが、「正しいこと」

「良い・悪い」「正しい・正しくない」なんて、そんなもん…

 

◆「どっちでもいい」と許容するから「止まる」んだ。

 

◆「認知をずらす」は、問題の横にいる。

「どーでもいい」とすると、問題が相対的に小さくなった。許容することで、

 

◆問題を産み続けるサイクルから出る

反応の連鎖

 

◆目標とか夢とかに縛らないで、もっと自分を解放してあげたい…

 

◆不自由な「わたし」

今と過去のわたしとは、なんの関係もない

 

◆本には何も無かった…

特にノウハウ本

 

もう、それらを見ても反応しない

読まなきゃいけないという問題がなくなった

 

◆それは他人の問題であって、自分には問題ではない

機嫌とか気分、病気とか、憎い、嬉しいとか、、

 

◆「安心・安全」である、という “実感” も、何かと比較した「結果」

「わたし」は元々「安心・安全」だった。いや、

「安心・安全」という概念すらない、無関係に在るのが「わたし」。

 

◆どこから(外)で、「他人ごと」か?

 

◆問題を解決してるようで、増やしてる

発言してたら矛盾は生じるもの

 

◆みんなで集まって飲食することに、違和感しかない。。

一人なら、この何倍もの豊かな体験ができるのに。。って思う。

【#一人】~「夢中」になってるときは、いつも「一人」だ。

 

◆病気なんて自分の意志とは一切無関係に起こる

 

◆世界が正しくて、日本が異様だと見えるのもまた偏り。

どっちもどっち。

 

◆自分が及ばない問題は、潔くスパっとあきらめよう。

自分が扱うべき問題ではない、と。

 

◆「瞑想」とは、具体的に何をする行為か。

「観る」「気付く」「止める」、この3つのみをする。

 

◆「存在してる」以上は、さとっていない。

認知対象であるから。比較対象であるから。

 

◆「証明」とか「論破」とかじゃない。「包含」するかどうかだ。

 

◆「洗練されていく」っていうのは、「抽象度が上がっていく」こと。

「ことば」は少なくなっていく

 

◆「両極端」を一度知ってから、微調整していく

 

◆「出来ること」を同心円状に少しづつ拡げていく

迷ったら中心に戻る。

ヌケモレが無いか。。

 

◆わたしは既に到達していた。。←この『在り方』

不足はない。。

 

◆認知したもので人生は構成されていく。

無意識で在れば、流されたまま。

 

◆「それは要らない。それも要らない、、」と、脳に覚え込ませる #瞑想日記

 

◆認知の盲点を埋めるのは認知でしかない

認知の盲点に気付く、それ自体が認知。

 

◆認知の盲点の埋めやすさが、自分の特性。『縁』

 

◆「罰が当たる」はまさに「ワケワカランモン」が上に。。

 

◆道徳なんて、人から押し付けられるものではなく、自発的に出てきてしまうもの。

 

◆頭なんて、切羽詰まれば回る

 

◆見るから決まる?量子力学

 

◆止まっていることに、どれだけ重要度を感じられるか

止まるは自己解決済み

 

◆観るは止まるを包含してる(図解)

 

◆情報的な操作だけで、問題を自己解決へ導くことが可能。

 

◆「何故?」は、考えたり、探す意味がない。自由意志は無く、ただ反応しただけ。当たるまでやる。

 

◆観てないと、その瞬間に気付けない。いつ、どの瞬間、手足が冷え始めたのか、、

 

◆不足は自分でつくる。誰かにつくられた不足は要らない

DNAとか。。

不足を追っかけてった結果が今。とほほ、、

 

◆努力は裏切らない、、というのも、そう思いたいからではないのか?

 

◆健康で、一番上にくる抽象度高い「何かワケワカランモン」は、、
「プラシーボ効果」だ。

 

◆人間がする「予測・予想、、」すべてが「机上の空論」。
人間が仮設定(矛盾は無い)した範囲内で、脳が創り出す物語

 

◆「観る」「気付く」「止める」以外、他に何ができようか…

 

◆自分の問題だけで手いっぱいなはず。。結構忙しいぞ。目まぐるしく変化している。

 

◆同時に問題を大きくしてないか、気付いてる? #ことば

 

◆何か愛着を持って保有すると、そこから抜けられなくなる。

思考が。認知が。

偏って、凝り固まって、、、実に不自由だ。

 

◆どの『あり方』になりたいか、まず決めて、そこに挑もうか…

 

◆アリエナイことが起こることなど、絶対にアリエナイ。

 

◆メモやブログは「結果」。
「結果」を見れば、どんな「認知癖」があるか分かる。

 

◆「意識」っていうから、よく分からない。。「認知」と置き換えると分かる。

 

◆「苦しみや問題」を、まるっと括って、自己解決!

 

◆人になんと言われようと、自分の『縁』は、自分にしか分からない。

 

◆「幸せ」なんかに現を抜かす奴もいる。。

 

◆「先生……、現実って何でしょう?」萌絵は小さな顔を少し傾けて言った。「現実とは何か、と考える瞬間にだけ、人間の思考に現れる幻想だ」犀川はすぐ答えた。「普段はそんなものは存在しない」
#『すべてがFになる』 (P.)

 

◆国が何でもってるか、、「制度」や「法律」ではない。
国民一人一人の「人間性」とか「道徳感」みたいなもの。
歴史が積み上げられたもの。

 

◆動機なんてものに、何か意味があると本当に考えているの?
#『すべてがFになる』 (P.16)

 

◆「信用」なんか無い。「思い込み」しかない。

 

◆「認知の盲点」「認知領域」…それらの存在をありありとリアルに感じれるか?
「丹田」「気」「神」、、

 

◆「考えなくても答えが出るシステム」を確立する。瞑想で。

 

◆ぜんぶいろんな『在り方』のことを言ってる…

 

◆認知領域に取り込むのも、切り離すのも、自在であれ。

 

◆運で決まるからこそ、希望がある
実力がない者にとっては…

 

~ ごあいさつ ~ ハチ@夢中

瞑想やってます。日記書いてます。 ウソかホントか、よく分からない話を読んでくれてありがとう。自分が「認知した世界」を少しづつ書き溜めてます。 (♪素敵なものが欲しいけど あんまり売ってないから 好きな歌を歌う 『JAM』THE YELLOW MONKEY) 自分の頭の中を覗かれるようで恥ずかしいけど、公開します。(後悔しません!) 「ここが違うよ!」「それは分かる」「合ってるよ!」何でもご意見・ご感想頂けると嬉し いです。(難しいことは分かりませんw)