『時間は存在しない』というのは、『在り方』の一つ。
▶【#『在り方』(在りよう)】~「価値観」であり、「判断基準」であり、「認知のフィルター」であり、「マインド」であり…
ほんとうに存在するかしないかなど、分かるはずがない。というのが、正直な私の立ち位置。
だけど、『時間は無い』とした方が、都合のいい場合がある。。
「仏教」も「科学」も「哲学」もよく知らない私でも、「体験」だけで分かる。
(「分かる」というのは、正しい・正しくないを包含している。矛盾も。)
「夢中」のときは、『時間』が短く感じる。
「夢中」の深度が深いほど、『時間』が「短かった」と後で気付く。
無限に深く入ってしまったら、「今、この一瞬」しかないのでは?
『時価は無い』とした方が、都合のいい場合がある。。
むしろ、無い方が良いときの方が多い。
それは、「不安」や「問題」を感じるときが多いから。
『時間は存在しない』とすれば、「苦しみや問題」など、同時に存在できないのは、体験で分かる。
今まさに頭の上に「斧」が振りかぶさっている!、、STOP!
今まさに頭の上に「斧」が振りかぶさっている!、、STOP!
今この瞬間を「写真」のように切り取る。
“この瞬間だけ” しか無かったら、『時間』が無かったら、「苦しみ」も「問題」も在りえない。
「未来」が無かったら、「苦しみ」や「問題」は存在しない。
「未来」を思うから、「恐怖」が発生する。
(斧が頭に刺さってる瞬間を切り取っても同じ。痛みも存在しえない。「ずっと痛い」っていうのは、『時間』があるから「ずっと、、、」なのだ)
科学が証明できるか?
出来ない。
科学は、(人間が理解するために切り取った)この世界の一部。「「矛盾」は無い」という設定の中での物語。
『時間は存在しない』、、なんて言ったら、「科学」は崩れ去ってしまう。。
科学の外、この世界の外側から観ないと、、
イソギンチャクに、「この世界は3次元だ」とどんなに伝えても無理なように。。(たとえ「ことば」が通じたとしても、、)
イソギンチャクで在っては、絶対に理解できない。
カント「人間は物自体には到達できない」
個々人が、それぞれ感じたこと、それを「認知」することしか出来ない。
「利己的」でしかあり得ない。。
「時間は存在する」⇄「存在しない」を、自在に行き来できれば。。
自分が都合の良い方に、自在にシフトできたら。。
「苦しみや問題」が嫌なら、「存在しない」に。
「苦しみや問題」が欲しいなら、「存在する」に。
でも、絶対欲しくなるから。
「楽しみ」や「解決」が。
「楽しみや解決」が存在するのは、「苦しみや問題」が在るから。
一方だけが存在するのはアリエナイ。
「楽しい」も、「解決した!」と思うのも、人間の「認知」。
「認知」は、何かと “比べて” その「差異」を感じてる。
「比較対象」が無かったら、「認知」つまり、「楽しい」も「解決した!」も無い。
「楽しみ」や「解決」が欲しくなったら、必ずついてくるのが「苦しみ」や「問題」。セットもん。
どうやっても、「自分にとって都合の良い」という範囲から出れないわけで、、
「物理学者」は「物理学」から。「哲学者」は「哲学」から。「自分」は「自分」から。。
いや、いた!私が知ってる限り一人だけ。
「自分で自分にレッドカードを出した男」が!
確か、映像で観た記憶が残ってるんだけど、、探しても出てこない、、(泣)
詳しく書かれているブログがあったので、リンクを貼っとく。
https://ameblo.jp/kusuke6/entry-12579944727.html