なんで「結果なんか知らね」なのか?
もう少し、深い認知が降りてきた。。
▶【結果なんか知らね!】~やってる最中に「結果」なんか考えるバカがいるかよっ!
結論!
「欲求」も、「認知」さえも、『わたし』がした行為ではないから。
複雑な『縁』が絡んで、 “自動で反応” した「結果」だから。
それをしたのは、『わたし』ではない、から。。
『わたし』は、一切、選択などしていない。
『わたし』の「意志」など介在していない。
言ってみれば、、「他人ごと」
結果、上手くいったとしても、それは『わたし』がしたことではない。
ただ反応した結果。
『わたし』は一切関係していない。
だから、『自我』など膨らみようがない。
『わたし』が影響を及ぼすことなど、不可能だから。
〇ソ💩である「認知」の扱い方
自動で反応した結果の「認知」から、「これは!」と思うものが来たら、その認知に従う。
ほとんどは、クソ💩みたいな認知。これは要らない、それも要らないと捨てる。
1,000に1つ来る「光る認知」を見逃さないで、「観て」いられるか。。「気付ける」か。
それが習慣化すれば、「1,000に1つ」が、「100に1つ」となっいく。
何が「要らない認知」か、脳が勝ってに学習する。
「望む認知」の確率が上がる。
\現実が変わる/のは、これ以外アリエナイ。
「自由」は既に確保されていた。
ちゃんと「観てる」から「気付ける」。「気付ける」から「止められる」
「止める(選択しない)」←ここにのみ「意思」は介在できる。
/
( ゚д゚)ハッ! 「自由」は既に確保されていた。
\
「観る」「気付く」「止める(選択しない)」
これらは誰にも阻害されない。
自由は無くならない。
「観れてる」なら自由である。
「気付いた」なら自由である。
「止めた(選択しなかった)」なら自由である。
いつでもそこに意識を置いておく。
そうすれば自由から離れることはない。
自由でないのは、自ら離れるからだ。
「自由」でないなら、ただ「反応」してるだけ。そこに「意思」は働いてない。
(選択したと思ってるだけで、ほんとうは、反応に従っただけなのだ。)
「わたし」がやれることは、「観る」「気付く」「止める(選択しない)」のみ。
それ以外の「思考・感覚・感情・言動」は「観察対象」。
それらは『わたし』ではない。
人生でやることは、「3つの力」の強化
「自由意志が無い」とすると、やることがシンプルになる。
「わたし」がやれることは、「観る」「気付く」「止める(選択しない)」の3つ。
すべての認知がクソであるなら、厭わず捨てられる。
委ねた認知の結果を観て、良かったら次も委ねる。悪かったら選択しない。
どうせ今出来ることしか出来ないんだから。。
あとは、それ以外のとき、無意識でいれば、勝手に “なんか反応” してる。
野放しに放し飼いしてればいい。
バカな方に行こうとしたら、手綱を締める。
孤独でなきゃ「自由」は無い。アリエナイ。